20250309 東淀川教会礼拝宣教要旨「苦難の恵み」イザヤ書53章1-5節 マタイ福音書12章43-45節
聖書箇所
イザヤ書53章1〜5節(交読文)
我らが宣(の)ぶるところを信ぜし者は誰ぞや、
主の手は誰にあらわれしや。
彼は主の前に芽生えの如く、乾きたる土よりいずる木株
(こかぶ)の如く育ちたり。
我らが見るべき美わしき姿なく、うつくしき貌(かたち)はなく、我らがしたうべき見栄えなし。
彼はあなどられて人にすてられ、悲しみの人にして
悩みを知れり。
また顔をおおいて避くることをせらるる者の如く、
あなどられたり、我らも彼を貴まざりき。
まことに彼は我らの悩みを負い、我らの悲しみを担えり、
しかるに我ら思えらく、
彼は責められ神にうたれ苦しめらるるなりと。
彼は我らの咎(とが)のために傷つけられ、
我らの不義のために砕かれ、
みずから懲(こら)しめを受けて、我らに安きを与う、
そのうたれし傷によって、我らは医やされたり。
マタイ12章43−45節
マタイによる福音書12章 43-45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。(44)
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」(45)
宣教要旨「苦難の恵み」
主イエスが歩み寄られる「貧しき者」とは「世の受難者」でもあります。その世で孤立させられ生き辛さに喘ぐ人(神の子たち)です。疎外され続ける世の難民です。
世人は難を逃れ保身と豊かさと地位を求めて下を見ず、高みへの上昇を図り続けます。人の愚かさが作り出す底辺(しんがり・暗闇)を救うために神が救い主を送られることを紀元前8世紀後半頃にイザヤが書き記していました。
世人の咎・傲慢のために傷つき病んでいる者を癒やし、貧しき者が負わされている苦しみ・重荷を負い続け、「神の子」の栄光を示し続けました。
イエスの十字架の前で祈る私達も復活の主イエスから「受難」への「連帯」に招かれていると思います。
祭司長ら神殿政治のメンバーは汚れから遠ざかるために常時沐浴し清潔な衣類を身につけ汚れていると定めた物や人々を排除し続け、自らを清い、正しいと信じ続けていました。それが「空っぽになったm清められた神殿」なのでしょう。そこから“穢れ”として排除された“穢れた霊”が更に「穢れた七つの霊」とともに住みつく、というイエスの話は、神殿は生き辛さを抱えた人々こそが「祈りの家」に招かれている、ということなのでしょう。そうなると、自分たちこそが清い、神に近いと信じている人々、実は自分たちこそが神の御心から遠い、傲慢で穢れていたと気付かない人たちのの状態はもっと悪くなる、というメッセージと理解できます。
イエスの話は、コロナウィルス騒動にも通じていると感じます。新たなウィルスを重大な“穢れ”として恐怖した(恐怖させた)指導者たたちは、感染を受け入れ弱者を守りつつ共同の免疫を獲得していく道を模索しなかったし、ヤミクモなワクチン開発と接種による被害実態が大きく、その実態がいまも解明されていないという指摘が続いています。コロナワクチンを打たなかった場合の死者数と、マスクを強要し、コロンワクチンを何度も打ってからの死者数と、果たしてどちらが多かったのでしょうか。
「彼らは穢れ人!」とでも言いたげな「ヘイト」が、顔を隠したネットなどを通じて在日の中国、朝鮮の人々に向けて発せられている現状を憂います。外に向けた「ヘイト」・敵視で国家・民族のプライドを護ろうとした過ちは何度も繰り返してはならないと思います。
受難節にあたって、執り成しの主イエスにこそ学びたいのです。