20250316 東淀川教会礼拝宣教要旨「裁いてはならない」マタイ福音書13章24−43節

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マタイ13章24−30節
「捌いてはならない」
イエスは、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている。(24)
人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。(25)
芽が出て、実を結ぶと、毒麦も現れた。(26)
僕たちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』(27)
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、(28)
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。(29)
刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。』」(30)

マタイによる福音書13章 36-43節


それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちが御もとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。(36)
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、(37)
畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。(38)
毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り取る者は天使たちである。(39)
毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(40)
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者たちとを御国から集めて、(41)
燃え盛る炉に投げ入れる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(42)
その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(43)

宣教要旨「捌いてはならない」

「神の国」の喩え話のひとつで「毒麦の喩え」と呼ばれている箇所です。
「毒麦のたとえ」は 13章で2つに分けて記述されています。前半は多くの人々に向けて語られた内容。後半は身内、仲間たちに語られた記事。
詳細は省きますが、前半は、「あれは毒麦だ」などと判断して裁いてはならない」という、イエスの「裁くな」に関連したメッセージ。裁く(捌く)のは主である、というメッセージが中心です。

 地域や集団の方針に対して、内側から反対する、異論を唱える、全体にとって邪魔と思われる、そういう人を「間違っている」とか「悪・毒である」とか様々な理由で“裁き”、“排除”しようとする動きが発生してくるのですが、それは異なった視点から見ると、多数派が少数派、あるいは意見の違う個人を排除することによって多数派を守ろうとしているだけかもしれません。

 争い、善悪を決めつけ、感情的に排除するのではなく、多様な人々が共存しながら、それぞれの意見や感覚の違いが何を生み出すのか、時間とともにどう影響し合うのかをじっくり待って経験し合うこと、見極めることは重要なのでしょう。裁きは神、主に委ねるべきであり、基本的な姿勢として「裁くな。裁き合うな」がイエスのメッセージだと思われます。

 後半の記事は、仲間たちがイエスにもう一度尋ねる、という形で「世の終わりのときの神の裁き」という方向に話が展開しています。これは初期のキリスト教会がユダヤ教側から、あるいはギリシャ文化、ローマ帝国側からの迫害に耐えながら、キリスト者が最後の勝利を心に描き続けるために持ち続けたビジョンが、黙示録のような「終末ビジョン」としてマタイ福音書に含まれたものと思われます。

 現代社会も「◯◯は毒麦」「アカ=悪魔の陰謀」「サタンとの最終戦争」「世界の終わり」「悪魔・サタンの陰謀」のようなイメージが大きな力を持っているように感じられます。
 
 米国では、ヨハネの黙示録のような、この世の終末を念頭に祈る熱狂的な教会が多くの信者を集めています。メガチャーチ(一度の礼拝で1000人以上)、ギガチャーチ(1万人以上)と呼ばれる熱狂的な礼拝も人々を引き寄せています。

東淀川教会では『いかなる時も醒めていなさい』というイエスのメッセージを心に刻み続け、「陰謀論」や「終末論」には冷静でありたいと願います。

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