20250406 東淀川教会受難節第五主日礼拝 宣教要旨「神の子=ひとを取り戻すイエス

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Table of Contents

マルコによる福音書1章 21〜28節
一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。(21)
人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。(22)
するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。(23)
「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24)
イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、(25)
汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。(26)
人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」(27)
こうして、イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(28)

宣教要旨「神の子=ひとを取り戻す」
今日の聖書箇所に、聖書を読み始めた10代の頃、この汚れた霊にとりつかれた人が叫んでいる“あなたの正体は神の聖者だ”という叫びは、正しいと思っていました。イエスこそ神の代理者、聖者、唯一の神の子、というイメージを持っていましたから。でもそれはイエスの姿ではなく、原始キリスト教団が作り上げたイメージであることがだいぶ後になってわかってきました。
芥川龍之介の「西方の人」に、バプテスマのヨハネの苦悩の表現がある。『キリストはお前だったのか、わたしだったのか』。ヨハネについての理解は、キリスト教会側と芥川とは異なりますが、バプテスマのヨハネが持っていた彼自信の役割について、イスラエル民族への審判者というメシア像があり、それゆえの「悔い改めよ」の呼びかけであったと芥川は理解していたのでしょう。

イエスは「イスラエル民族こそ神に選ばれた民」と信じている民族主義者でもなく、彼等の望む“ダビデ王のようなメシア”や、それに批判的な“イスラエルの民に対する審判者としてのメシア”という自覚もなかったと思います。“あなたこそ神の子”という呼びかけに対しては、“人の子”で切り返していたようです。イエスの神から受け取った使命感、覚悟は、イザヤ書53章の“受難の僕”がもっとも近いと思われます。

 汚れた霊に取り憑かれた人が叫んだ内容は、イエスに対する攻撃、異議申し立て、妨害、いわばヘイトと思われます。お前の正体はわかっている。神の聖者だ、とは何なのでしょうか。「イエスよ、おまえは神に遣わされた特使、神の身代わり、審判者、聖者だ!」のニュアンス。それならばキリスト教の理解と同じじゃないか、と感じられる人もおられると思います。が、イエスはそのような、イエスや、人を神格化しようとする叫びを正面から否定し黙らせています。人間を神格化する運動は今日では“カルト”と呼ばれます。イエスは仕えられるためでなく仕えるために、罪人、汚れ人と、顔を背けられた人が神の子であることを取り戻すための働きをやめなかったのです。

芥川龍之介の“蜘蛛の糸” お釈迦様は天にいて蓮池から糸を垂らして、地獄にいるかんだたを上に引き上げようとされる。イエスは一番下、世のしんがり、どん底にいてくださる。世の最後尾に向かわれる。

私たちは強いイエスに依存して、十字架に向かって歩むイエスに、更におんぶで抱っこと依存したくなるお馬鹿さんであることを自覚したい。

イエスがひととして扱われぬ人々に近づき、ひとりひとりが神の子であることを理解させ、親である神と、神の子としての関係をそれぞれが取り戻す手伝いをし続けた。そのことを福音書の、とくに奇蹟物語からくみ取り、イエスを再発見し続けたい。



 

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