20250413 東淀川教会 受難節第六主日礼拝 宣教要旨「Personal is Political」 

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

Table of Contents

聖書箇所 
マタイによる福音書 17章 14〜21節

一同が群衆のところへ来ると、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、(14)
言った。「主よ、息子を憐れんでください。発作でひどく苦しんでいます。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。(15)
お弟子たちのところに息子を連れて行きましたが、治すことができませんでした。」(16)
イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまであなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れて来なさい。」(17)
そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、その時、子どもは癒やされた。(18)
弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「どうして、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。(19)
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。よく言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなたがたにできないことは何もない。」(20)

しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。(21)


ルカによる福音書9章 01節
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊を追い出し、病気を癒やす力と権能をお授けになった。

ルカによる福音書10章 17節
七十二人は喜んで帰って来て、言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

宣教要旨「personal is political 」ひとりの生きにくさは政治にある

 イエスが活動を始めた30歳頃まで、どこで何をしていたかの記録はありませんが、おそらく、エッセネ派とかクムラン教団と呼ばれるような、血縁や一般社会からはかけ離れたところでユダヤ教教師、預言者を目指すための学びや、祈祷・断食を伴う修行をしていたのではないかと思いますし、そう言っている学者たちもいます。学びや修行のなかには、病気治療を行っていた預言者エリアのように、病気の学びや病気治療の実践も含まれていたと思うのです。現代社会の用語で言えば心霊術師、祈祷師、シャーマンのような“ちから”が求められていたと思います。
 今日の聖書箇所は、イエスがその人に取り憑いている悪霊を叱ってその人から追い出す、という場面の一つです。

 現代でも、重篤な精神症状(怖ろしい幻覚に怯えて暴れ出したり、目の前にいる人を加害者と信じて襲いかかったり暴れたり、恐怖や苦しみから逃れるために死にたがったりする)の患者に対して、その幻覚や妄想を「そんなものはないんだ、幻覚だ」と一方的に否定するのではなく、幻覚や妄想の「実体」に向けて一喝する(命令する)などの治療があります。或いは、催眠療法や暗示を用いて、幻覚や妄想の内実や実体をおもてに引き出し、それと挌闘し、治療するための呪術や“一喝療法”が古来よりありました。イエスは多くの病、障害を負う(負わされた)人々の治療を行ったことが奇蹟物語として伝えられています。イエスには何らかの呪術的治癒力も備わっていたと思います。

科学的であることが正しさや判断の基準であり、悪霊なんて迷信にすぎない、という方もいますが、私はそれも“科学信仰”だと思います。21世紀の日本における10代、20代の、死亡原因の第一は自殺です。心が敏感な世代です。
世界を三つの世界に分類する方法があります(①物質や自然世界、②情報やシステムの社会、③個人の内面世界)が、いかに自然に取り囲まれ、便利快適な社会に見えても、「個人の内面世界」がとても不安や恐怖に満ちた、生きづらい、楽観的な気分になれない社会であることの証明なのでしょう。言い方を変えれば、この現実は“悪霊に満ちた世界”であることを認めざるを得ません。

 最近話題になったテレビドラマに“御上先生”。東大合格率トップクラスの私立高校三年生の担任として文科省から派遣された御上先生と生徒たちの激しいやりとりの物語でした。その三上先生が時々呪文のように語ったpersonal is political (個人的なことは政治的なこと)と、“上級国民予備軍でいいの?”が印象的でした。イエスの時代、地の民・汚れの民(アムハーレツ)とされた人々が真っ先に福音を聴いた、という伝承と重なりました。現代社会の“悪霊”について思い巡らす一つのヒントになりそうです。

イエスの、「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなたがたにできないことは何もない。」この箇所は聖書と出会い始めたときから理解が困難でした。
 個人に不幸が襲ったとき「それは信仰が薄いからだ」と宣言し、病気の診断も行い、神殿側の指示に従わせていたのは、神殿側の祭司長たちでした。そもそもイエスは「信仰を持ちなさい」などとは言っていないと思います。イエスが語られた逆説的な、皮肉たっぷりなメッセージが元だったのでしょう。
「人々の病気を診断したり、襲いかかった不幸を、信仰が薄いからだとか、信仰のしるしとして献金を要求したりしている祭司長たち。彼等が清く正しく信仰に厚い人々、神さまに愛されている人々ならば、神さまにお願いしてさっと病気を治したりできるはずだし、神さまを使って大きな山を移すことすらできるはずだよね」というお話が元だったと思われます。

 社会の矛盾が個人を生きづらくさせていること。personal is political
その重荷を取り除いていくこと。重荷を負わせている権力や強者の力を叱りつけること。ひとりひとりの命が神によって吹きこまれたかけがえのないものであり、その命への神さまからの祝福を取り戻していくためのお手伝いから始めたのだろうと思います。その結果起こったことが様々な“奇蹟”だったのでしょう。
 イエスの足跡を、それぞれが置かれた現実のなかに見いだし、追い求めたいと願います。

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です