東淀川教会20181028礼拝 詩編35:13-17 マルコ福音書1:29-31 司式・宣教 金田恆孝
旧約聖書 詩篇Psalms 35章13-17節
彼らは悪をもってわたしの善に報い、わが魂を寄るべなき者とした。しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、ちょうど、わが友、わが兄弟のために悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように悲しみうなだれて歩きまわった。
新約聖書 マルコ福音書 Mark 1章29-31節
それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。
宣教題「手をとって起こすとは」(宣教趣旨)
隣人、大切な人の負わされた重荷、苦しみを分かち合う方法は、それと同じような痛みを我が身に負うことだった。
「わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、ちょうど、わが友、わが兄弟のために悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように悲しみうなだれて歩きまわった。」詩編35
それは、言葉で直接相手を慰めたり励ましたりするような方法ではなかった。或いは、離れたままで、その人の苦しみが和らぎますように、と神に祈ることでもなかった。もっとダイレクトに、隣人の痛みを自分の身で感じるための方法だった。
更に、イエスの、隣人の苦しみを分かち合う、受け取る方法は、その人に直接触れ、病を己に伝染させる、苦しみを自分に引き受けながら「クーム(クミ)」(起きよ)と命令される。そして更に、苦しみを負わせているものに対して「去れ!」と命令しながら行われる癒やしであり、底知れない受苦力である。
更に、この「タリタ・クミ」や「エパタ」などの、アラム語がカタカナで表記されている短いコtバは、弟子たちや身近な多くの者が耳にしてきた、イエスが全体重をかけて命じるときの象徴的なコトバだったのでしょう。
…そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である…MK5-41
「シモンのしゅうとめが熱病で床についていた」
熱病とは、マラリア・チフス・肺炎など、死に向かっている危険な状態であり、うつる・伝染する危険をまず考えなければならない状態です。その人に向かってイエスは、手で触れるなど、同じ苦しみを引き受けるための姿勢を保ちます。
しゅうとめの名前はここに記されてはいませんが、イエスはその名前を呼びながら、当事者の長年の苦しみをご自身に受け取りながら、そこから歩きだすことを、しゅうとめの魂に向けて命令したはずです。
○先週の出来事
ジャーナリスト安田純平さん帰国について「勝手に危険地域に入った人を国が守る必要はない。自己責任。自分で蒔いた種は自分で刈り取れ。国が救出のための金を払う必要はない」等々の発言が目立つ。「危険地域」がなぜ危険地域になったのか、国やセクトに、報道用に料理された“現実”ではない、なまの現実を伝えようとする安田さんのような存在、働きこそ、現実を理解したい人々にとって貴重なのだ。“民は国家の取捨選択、料理をした情報を受け取っていたらいいのだ”みたいな、まさに全体主義、国家主義の愚かしさ、傲慢さがそこにもろに表れていると感じる。彼は国家に守られようとはしていなかった。ジャーナリストの本分を果たそうとしたのみである。