東淀川教会20181104礼拝 ダニエル書9:18-24 マタイ福音書8:6-10 司式・ 牧仕 金田恆孝

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旧約聖書 ダニエル書9章18-24節
わが神よ、耳を傾けて聞いてください。
目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。
われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、
ただあなたの大いなるあわれみによるのです。.
主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。
わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。
あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。
わたしがこう言って祈り、かつわが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、
わが神の聖なる山のために、わが神、主の前に願いをしていたとき、
すなわちわたしが祈の言葉を述べていたとき、わたしが初めに幻のうちに見た、
かの人ガブリエルは、すみやかに飛んできて、夕の供え物をささげるころ、
わたしに近づき、わたしに告げて言った、
「ダニエルよ、わたしは今あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました。
あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです。
あなたは大いに愛せられている者です。ゆえに、このみ言葉を考えて、この幻を悟りなさい。
あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。
これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、
幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。

新約聖書 マタイ福音書8章6-10節
「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
そこで百卒長は答えて言った、
「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、
ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、
また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、
「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。

教題「執り成しのわざ」(宣教要旨)
「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、
ただあなたの大いなるあわれみによるのです。主よ聞いてください。主よゆるしてください。」

 戦いに明け暮れ、神の御心を聴こうともせず、力によって自国の繁栄を得ようとしたイスラエルの民。その結果、再び捕囚、他国の奴隷状態になる。
かつてのエジプトでの奴隷状態よりももっと惨めな状態となり、
その苦しみの中でイスラエルの人々は再び神の名を呼び始めた。
その祈りを代弁しつつ、愚かなイスラエルのための、執り成しの祈りを行う。
執り成し。それは今日の商法における「連帯責任」によく似ている。
執り成す者は“彼らの罪”を軽減してくれ、とお願いする執り成しではなく、
イスラエルの人々の犯した罪とその罰を一緒に背負いつつ神の声を聴こうとする。
更に、天使ガブリエルを通して与えられた、長期的な悔い改めの期間を悟り、
それをイスラエルの人々に伝えた。

 ナザレのイエスによる執り成しとは、まさに“負わされた重荷”を、
イエスご自身の重荷としてともに担い、「我が祈り」として祈ってくださる。と感じられる。
 百卒長の言葉は「イエスの執り成し」への、直感的、かつ本質的な理解が現れていると思われる。
百卒長は自分の僕の病を自分自身の痛みとして担っているがゆえに、
イエスの「重荷の背負い方」がとんでもなく大きく深いものであることを理解したのだろう。
イエスの“自分自身を愛するごとく隣人を愛せよ”とは、隣人の痛み悲しみ苦しみを 我がこととして分かち合え、と同義であろう。
この苦しみを分かち合う、「共苦力」は私たちがもっとも失っている力なのだろう。

○先週の出来事
 教会員の自宅で起きたこと。生活介護を受けている“重荷を負う者”に、仕事で訪れた介助者が入浴介助のおり、「あなたの髪は煙草臭いから困る。あなたの健康のためにも私のためにも煙草は止めるべきだ」と言ったらしい。これは「親切」だろうか。 それとも個人のプライバシーをも無視した、社会的弱者を見下した強者の暴言だろうか。

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