東淀川教会20181216礼拝 エゼキエル2:1-3 マルコ2:3-12 司式 宣教 牧仕・金田恆孝

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旧約聖書 Ezekielエゼキエル書2章1-3節
2-1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
2-2 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。
そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
2-3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、
すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。

新約聖書 Markマルコ福音書2:3-12節
 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、
穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 
ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

宣教「ただの人こそ権限あり」(要旨)
 捕囚されて5年目の紀元前593年、バビロンの湖畔でエゼキエルに神の声が聞こえた。ただの人の子を「語り人」として用いる、との神の声があった。しかもイスラエルがどう謝った道を歩んでいるかを語れ、との召命だった。

 イエスが留まっていたカペナウムの家に、重病人を戸板に乗せて運んできた人々がいたが、人が多くてイエスに近づけず、屋根に穴を開けてそこから病人をイエスの近くにつり下ろしたという、マタイ、ルカ両福音書にも報告されている有名な箇所でもある。屋根を壊すという違法行為だが、イエスはすべてを含めてそれを「信仰」と呼び、なおかつ病人に対して“あなたの罪は許される”と未来形で語る。ルカ福音書は“許された”と過去形)。


 イエスの尻尾を掴んで訴えようとしている律法学者たちはこれを「神を冒涜している」と非難する。本音は、神の声を独占しているはずの我々の神殿を冒涜している、が本音であろう。
「どちらがたやすいか」という問いかけは訳し方もあり不自然さを感じる。むしろ、「ただの人だったら、あなたに憑いている災いがなくなった、などと偉そうなことは言わず、大丈夫、歩いて家に帰れるよ、と言うだろう、みたいなニュアンスだったのではないか。


 「罪を定めるのも神、許すのも神、神しか(神の権威を委ねられていると思い込んでいる神殿組織、祭司長や律法学者しか)人を許せない」と強弁する宗教的権威者に対し、ただの人がただの人を助けようとするのが「信仰」であり、許す権威、すなわち「罪」と呼ばれる、その人に追わされている重荷、スティグマ、世から張られたレッテル、罪状書きなどを解き放つことができるのは、ただの人(人の子)であり、他者を許す権威は神からただの人にこそ与えられているのだ、というイエスのメッセージであろう。

○先週の出来事
 戦力で重要なのは武器の殺傷能力であり、それを使いこなす軍人の能力であり、更に重要なのはレーダーや衛星画像や収集されたデータによる“情報”である。米国中心の情報収集システムに与しない、中国独自の情報収集システムは邪魔で仕方ないのは理解できる。HUAWEI攻撃に追従する日本に義ありや?

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