教会・公会への展望(眼で味わう世界の礼拝)

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東淀川教会から世界の公同教会を展望する

現実の教会、教派、教団、セクトの排他性、権威的独善性、歴史の中で犯してきた過ち、などを現実の中で超えていくことは絶望的に困難です。それは東淀川教会を包括している日本基督教団ひとつとってみても明らかです。

 現実の教会に失望して教会を長く離れておられる方々も多くおられます。
「ひとは祈る生きものである」のは確かです。
個人的には(神主の息子でしたが)、先人と聖書によって、にんげんごときのイメージを超えた、言葉にするなら「かみさま」とわたしをつないてくださったのが「イエス」でしたが、この「信」を絶対化したくなる傲慢さは意識し続けたい。キリスト教会が(おそらく世界で最も)罪を犯してきた宗教であり、何がどういった罪であったかを告白できる宗教であり、かつ、どうすれば過ちを繰り返さないか、防ぐことができるかを証言できる宗教のはずです。

告白、悔い改めの重たさに耐えきれないゆえに「現実」と「宗教」、ひとりひとりの「信」とを合理的に分けてしまい、居心地の良いところに救いを求め安住しようとする営みを非難する権利などだれにもありません。結婚式司式のおしごとに明け暮れているエンターテイナー「牧師」を責めることもできません。

ただ、時代やセクトや不確かな今の「わたし」を離れて、「便利な部分もある」ネットを使って、動物的な臭覚を用いて、古からの祈りの足跡を、「歴史を学ぶ」のではない、「学ばない姿勢」で垣間見ながら、バックミラーで未来を覗く、というフレーズがありましたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に限らず、「祈りの場」を夢想できたらと思います。現代のまじめなキリスト者は「〜を学ぶ」というのが大好きですが、今はむしろ「学ばない姿勢」こそ必要なのだと思っています。

トップのイメージ
現代の都市生活者が求める教会はこうであるかもしれない。自然の脅威やエゴイスッティックな人間の争いからも守られやすい。そこは数多の「ライフライン」が整っていて、何よりもいのちを預けられる(かもしれない)、生死の判定ができる医師がいて、禁煙・クリーンで、アレルギー対策もしてくれて、血縁関係の軋轢からも自由になり、医師や看護師が忙しければ、カウンセラーが話を聞いてくれる。それにくらべたら、教会なんて、ご利益はないし、牧師なんて、何の役にも立たない…なんてね。
2019年 昇天後主日礼拝後の夕礼拝にて