20190526 東淀川教会礼拝 宣教要旨「「神の国もサタンも内側に」
Praise1.546(聖なるかな) hymn1.510まぼろしの影を追いて hymn 1.520静けき河の岸辺を
hymn1.531心の雄琴に 聖餐式.Holy communion0.79御前に我ら集い
旧約聖書 列王記下1章1-4節
1 アハブが死んだ後、モアブはイスラエルにそむいた。
2 さてアハジヤはサマリヤにある高殿のらんかんから落ちて病気になったので、使者をつかわし、「行ってエクロンの神バアル・ゼブブに、この病気がなおるかどうかを尋ねよ」と命じた。
3 時に、主の使はテシベびとエリヤに言った、「立って、上って行き、サマリヤの王の使者に会って言いなさい、『あなたがたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか』。
4 それゆえ主はこう仰せられる、『あなたは、登った寝台から降りることなく、必ず死ぬであろう』」。そこでエリヤは上って行った。
新約聖書マルコ福音書3章21-29節
身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。
聖書から聴く 主題「神の国もレギオン・ベルゼブル・サタンも内側にある」
悪霊の代名詞として,「サタン」の他に聖書に登場する名称。レギオンは古代ローマ帝国の「大隊」に由来し、“ちからをもったおおぜい”が、それに追従しない、追従できない敵対者や弱者、小さき者を抑圧する悪霊として暗喩されている。
「ベルゼブル」はモアブ王がイスラエル民族の信仰を捨てて、バール信仰のバール・ゼブブに自分の病気回復を願ったことに対し、預言者エリアが神の裁きを告げたことが伝承され、ばい菌をまき散らすハエ(ベルゼフフ)のイメージとともに軽蔑と恐れの対象でした。
イエスたちに対する“彼らは悪霊に取り憑かれている”という攻撃は、かなり頻繁になされていたわけですが、マタイ福音書やルカ福音書では、悪霊が人間の外側にあって、人間に悪さをする、口がきけなくなるなどの傷病を負う、それをイエスがその人から悪霊を追い出す、というイメージがやや強いのですが、マルコ福音書は、悪霊が外側ではなく人間の内側にあって、しかもそれは義人ぶっている、更に自分が気に入らない者たちを悪霊呼ばわりする、という「告発」のニュアンスが強いと思われる。
イエスという悪霊の頭(リーダー)が悪霊の力を使って悪霊を追い出しているだけだ!という誹謗に対して、権力財力地位を持っている者同士は互いの利益を守り合うために決して争わず、従わない者、役に立たない者、外側の敵に対してのみ争う故に、国が成り立っているんじゃないかね?というイエスの切り返しに、イエスの周りにいた、「貧しくされている者たち」がどれほど喜びの声を上げただろうか。
いつの時代も、強い立場にある者のレギオン性、ベルゼブル性をあぶり出したり、明らかにすると、たいがいしっぺ返しを食らう、「ひどい目に合う」というのが相場。やはり不幸の原因やサタンは「外」や「外敵」に置いた方が、国の内側の「平和」が保たれるのだろう。
○先週の出来事(気になるニュース)
中国HUAWEIとアメリカGoogle戦争。ソフト・通信システムはGoogleが圧倒的に優位だが、通信システムに欠かせないハードのレアメタルはHUAWEI側が圧倒的に有利らしい。
武器であれ、システムであれ、資源であれ、知的財産であれ、エネルギー開発であれ、もはや一方だけが○○を独占し、一方の□□を排除することはできないほど世界は狭くなっている感じがする。勝敗はオリンピックITゲームで決着するのが「平和」なのでは?