20190602 東淀川教会礼拝 宣教要旨「イエスをメシアに任命したのは誰か」

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Praise1.546(聖なるかな) hymn1.331主にのみ十字架を hymn 1.338主よ終わりまで hymn0.057ガリラヤの風薫る丘で 聖餐式.Holy communion0.79御前に我ら集い

旧約聖書 出エジプト 29章29-35節
29 アロンの聖なる衣服は彼の後の子孫に帰すべきである。彼らはこれを着て、油注がれ、職に任ぜられなければならない。
30 その子たちのうち、彼に代って祭司となり、聖所で仕えるために会見の幕屋にはいる者は、七日の間これを着なければならない。
31 あなたは任職の雄羊を取り、聖なる場所でその肉を煮なければならない。
32 アロンとその子たちは会見の幕屋の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べなければならない。
33 彼らを職に任じ、聖別するため、あがないに用いたこれらのものを、彼らは食べなければならない。他の人はこれを食べてはならない。これは聖なる物だからである。
34 もし任職の肉、あるいはパンのうち、朝まで残るものがあれば、その残りは火で焼かなければならない。これは聖なる物だから食べてはならない。
35 あなたはわたしがすべて命じるように、アロンとその子たちにしなければならない。すなわち彼らのために七日のあいだ、任職の式を行わなければならない。

新約聖書マルコ福音書14章3-9節
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

聖書から聴く   主題「イエスをメシアに任命したのは誰か
ベタニアとは新約聖書に登場するエルサレム近郊の地名で、マリア・マルタ・ラザロ兄弟の住んでいた土地である。現在オリーヴ山の南東麓に当たるとされている。
衝撃的な「ベタニア村香油事件」の記述は、4福音書でかなり異なっている。この事件の衝撃性はマルコ福音書以降でかなり薄められていると思われる。「重い皮膚病の人、シモンの家で食事のとき」とさりげなく記述されているが、ベタニアでは重い皮膚病の人が村人からも排除されず、律法の規定等でも排除されず、かつ、客を食事に招くことができ、当時で「汚れている人の家で食事が禁止されている」都市から遠い、「ゆるやかさ」をもった村だったと思われる。男達の食事の席に、女、しかも罪名を宣告されている「罪の女」とは、遊女か前科のある女性か。その女がイエスに近づいて、その頭にとてつもなく高価な香油のありったけを注いだ、とあります。すべてのの財産をはたいて手に入れた高級品だったのでしょう。女にとって、退路のない、命がけの行為だったはずです。
イスラエル民族にとって、頭に油を注ぐ行為の意味は、祭司(信仰のリーダー)の任命、イスラエルの民を導くべき王、メシアの任命、という重要な儀式でした。このメシアという言葉がギリシャ語でクリストス(キリスト)、油そそがれた者、の意味をあらわす言葉でした。この記事を素直に読めば、この「ケガレ」者の家で、祭司でもなく、王でもなく、律法学者でもない、逆に、世の最下層の、もっとも「ケガレ」た、罪人である女が、イエスの頭に油を注ぎ、メシアの任命式を行った、という「とんでもない」事件だったと思われます。しかも、イエスがこの女の行為を、語り継がれるべき大切な行為として宣言された。このとんでもない「衝撃」を和らげるための工夫が他の福音書記述に現れていると思われます。油注いだのは頭ではなく足であった、とか、女の、あるいはマルタの姉妹マリアのイエスに対する愛情を思わせるような記述等々。この「とんでもなさ」の衝撃に弟子達も耐えられず、「金に換えて貧しい人々に施せば」などのとんちんかんな応答をしたりしています。「貧しい」=「幸い」のイエスのメッセージは、人間が作って貧富の差を作り出している金(ゼニ)がなくても生きていける、生かし合える人間関係こそ幸い、というメッセージが込められていたのであり、「金の力で貧しさが軽減されるべき」などの弟子の発言はとんちんかんそのものです。
社会の恥部、この世の最暗部、序列の最後尾に置かれた者がイエスの頭に油を注ぎ、メシアとして任命する、という「とんでもなさ」こそが、マルコ福音書がかろうじて残した、決して見失ってはならない「イエスとは誰か」のメッセージだったはずです。イエス自身が語った “この女の行いは福音とともに記念として宣べ伝えられる” はずなのに、今日の教会でもほとんど取り上げられていないと感じられる。

○先週の出来事(気になるニュース)
新たな「令和」時代の幕開けとか、総力を挙げて米国大統領へのおもてなし等々で世がはしゃいでいる最中、28日に起きた登戸大量殺傷事件。更に5月31日米で今年150件目の銃乱射事件、バージニア州の市庁舎で12人死亡。4人負傷のニュース。日本の文化でいえば、和魂(にぎみたま)が荒魂(あらみたま)、祟り神に変わってしまう現象は激しく広がっていると思われる。

 

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