20190609 ペンテコステ礼拝 宣教要旨 

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旧約聖書 イザヤ書第11章1-8節
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、
正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

新約聖書 使徒言行録2章1-13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

聖書から聴く  主題「こころが通じる奇跡」
ペンテコステ、聖霊降臨。これは“起こり得る奇跡”です。これはイザヤが記している主の霊、つまり神さまが霊として、神さまが命を吹き込んだ人間の霊の上に神の霊がとどまった事件を体験的に表現していると感じます。聖霊。「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」とは神さまからの、人間の霊に対する一方的な働きかけ。これにより、神さまの前で「完全なる人」となることもできる。まさに“奇跡”が起こるのでしょう。「オオカミが子羊とともに眠る」ような奇跡が、ごく自然に実現する。
各々の慚愧の念、後悔、絶望、悔い改め、声にならない泣き声が充満し、しかも、個の祈りを超えた、イエスが示してくれた神への心の底からの「共tぽ同の祈り」が発生したとき、まさに“聖霊”がくだり、そこで一緒に祈っていた人々の個々の祈りが言葉になった。しかも、互いに全く異なる言語・文化なのに、理解し合うことができ、こころが疑いもなく響き合うという現象が起こった。

現代社会は文字や言葉が大洪水のように氾濫し、言葉も建て前と本音とに分かれてしまい、それらを必要に応じて器用にピックアップしたり、流行やTPOに合わせて言葉という記号を操ることのできない人々がコミュニケーションに難ありと診断されたり、失語症に陥ったり、引きこもってしまうケースも多いと感じています。

現代における私たちは、本当に奇跡を待ち望んでいるのでしょうか。そもそも奇跡を待ち望む前提としての願い、希望、ビジョンを持っているのでしょうか。そこが非常に危ういのだろうと思います。ともに切実な希望や願いを持ち寄ってともに祈るだけの情熱、パッションすら見失ってきているように感じられます。昨今発表された、「引きこもっている大人たちが60万人のニュースにはさほど驚くことではなかった。それはそのまま、現代社会と折り合いがつけにくい、なじめない人間が増えていることの証拠であり、「精神」を対象とする医学的な思考からは、「社会不適応障害」と言い換えることもできるのでしょう。

本来は個々の人間あっての集団であり「社会」のはずなのですが、社会あっての個人、という全体主義的病理が広く蔓延しているのでしょう。そして更にこの「不適応障害」はますます広がっているのでしょう。

気がつけば、人間は「祈る動物」であったはず。こころをすりあわせ、理解を深めようと努め、たとえ理解や共感が成立しなかったとしても人間に対する願いを捨てないために、或いは人の力を超えた災害、病気、争い、事件、かけがえのない隣人の死などを越えていくために、或いは人間ごときを超えた智、悟り、不可能を可能に変えてくれる「ちから」を求めて絶望を越えるために「祈る」という、古の人々が自然に行っていた行為は希薄になっているのでしょう。
絶望が、現実不適応が蔓延している中で、ともに集い、祈り続けているときに聖霊が降った、奇跡が起きたペンテコステの日。いまこそ、絶望を持ち寄るための礼拝が実は求められている、そのための教会でありたいと祈る。

○先週の出来事(気になるニュース)
警察が児童への虐待の可能性を通告したのに、児童相談所が動かなかった結果、児童が死亡してしまったという事件。警察も児童相談所も、事件を防ぐための責任を、親や警察や児童相談所が互いになすり合っていたことになる。やはり危険を把握し、事故や犯罪を未然に防ぐためには、この福祉政策の構造そのものに無理があるのだろう。

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