190915 宣教要旨 ヨナ書2:1-10 マタイ福音書16:1-4「しるしとは」宣教 金田恆孝
聖霊降臨節第15主日礼拝
旧約聖書 ヨナ書 2章1-10節
1 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、
2 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに
答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を
聞かれた。
3 あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水は
わたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
4 わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、
どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。
5 水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、
海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
6 わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかし
わが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。
7 わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、
わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。
8 むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。
9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの
誓いをはたす。救は主にある」。
10 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。・
新約聖書 マタイによる福音書16章1-4節
16:1パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
16:2イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
16:3また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
16:4邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
聖書から聴く 主題「印・証・証明書とは」
σημειον セィメイオン 徴、印、証、の言葉が使われています。身体の不調なしるし、不幸な前兆、雨が降る予兆もしるしですが、発行された身分証明書も意味します。
イエスの行いや言葉について、「おまえの身分証明書を示せ。」「おまえの言葉について、律法における根拠を示せ。」「神の国について語っているが、それが正しいという証明を示せ。」などとイエスに詰め寄ったみたいです。それが、パリサイ派やサドカイ派がイエスに“しるしを求めた”ことの目的だったのでしょう。
“邪悪で不義な時代は、しるしを求める”…
21世紀になって、会社で働くスタイルもずいぶん変わってしまいました。例えば、首にぶら下げた名札。それを仕事中は付けていなければならない、という風景は会社だけでなく、公的な場所での会議など身分証明書としてのタグは当たり前になりつつあります。現代は確実に邪悪な時代です。詐欺に怯え、テロに怯え、性善説的な人間観はリップサービス、お世辞の中だけにあり、安易に他人を信じることは“リスク管理”ができてい」ない証明となります。直感よりも公的な資格、公的な身分、更には社会的な地位がその人間の「証明」・しるしとなります。
たとえ貧困家庭であっても、子どもの尻を、時には顔をひっぱたいても高学歴を得させようとし、親の期待・愛に応えられない子に対して体罰、ないしは無視するのも、必然的な結果とも言えます。高学歴を得させようとするのは、社会のエリートにするためという親のエゴではなく、大学へ進む子どもが50%を超えた日本では、高学歴が「普通の人間」として生きるための条件、証明になるという「強迫観念」を社会が作り出しているためでしょう。
「ヨナのしるし」とは、神が「その人を用いる」ために行った「しるし」であり、本人が求めたものでもなく、“社会”が与えたしるしでもありません。後になって「あれがそのしるしだったのか」とやっとわかることができるかもしれない「しるし」なのです。多くの場合、それを自分の実力とか、自分の運とか、気にいらなければ他人や社会のせいにして不運を嘆くだけになってしまいます。
○先週の出来事(気になるニュース)
「ビンラディン息子を殺害 トランプ大統領が発表」のニュース。
待てよ… 息子は悪事を働いていたのか? 米国に宣戦布告していたか? 有罪、との判決を受けていたか? 米国は彼を国際指名手配していたか?
単に「悪人」だから殺害するすることは「正義」なのか?
このままだと「ビンラディンの息子」はどんどん増えるのだろう。