2020年2月16日 降誕節第8主日 イザヤ書9:1-2 ルカ9:51-61 「血の妄想・血の契約」週報No.2646
イザヤ書9章1~2節
1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
ルカによる福音書9章51~61節
9:51さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、 9:52自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、 9:53村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。 9:54弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。 9:55イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。 9:56そして一同はほかの村へ行った。 9:57道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。 9:58イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。 9:59またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。 9:60彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。 9:61またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
聖書に心を傾ける 【血の妄想・血の契約】
「異邦人のガリラヤ」紀元前700年頃、南ユダ王国からみればイスラエル12部族の姉弟の地、ガリラヤは、アッシリアからの移民政策の結果、すでに異邦人の地と見做されていた。その中でも、混血のすすんでいたサマリアの地は、穢れた異邦の地と見做されていた。
ガリラヤ周辺で異邦の地を巡っていたイエスたちが、ある目的をもって“エルサレム入城”のための旅を開始した。それは不退転のデモ行進であったと思われる。サマリアの人々にデモへの参加乃至は協力を申し出たが、デモの目的地がユダ族の多いエルサレム神殿であったため、ユダ族への反発が強かったサマリア(エルサレムではなくゲリジム山の神殿での礼拝を行っていた)はイエスたちのデモに反発したようです。
今日の先進諸国、及び日本でも、単一民族幻想が内閣府からPRされたり、天皇(宗教)を中心とした国体幻想が復興されようとしています。イエスたちのデモ行動は、今日に置き換えると、軍事基地のために蹂躙されている沖縄から国会を目指すデモ行進に置き換えて理解できる。或いは、1930年3月から三週間にわたって行われたハマトラ・ガンジーたちによる非暴力の行進、キング牧師の、支配者に対する非暴力・不服従への呼びかけも想起される。
フィリピンでは異なった民族同士の結婚から生まれた子どもは“ダブル”と呼ばれる。子どもたちはダブルの文化を背負っていることに誇りを持っている。日本では“ハーフ”と呼ばれる。日本人から遠くなった人という意味が込められている。“血”に対する感覚、理解の違いである。
イエスの、死刑台で流されるであろうご自身の血を分かち合うセレモニーは、抑圧され差別され殺される側の、どんじりの人々と血縁を結ぶ、連帯するしるしであり、血にまつわる愚かな幻想を打ち砕くものであったと改めて感じるのです。
寝屋川市で去年のクリスマスに33歳の女性が自宅の座敷牢(プレハブ)から遺体で発見された事件。中学生時代から不登校で、暴れ、自傷を繰り返したため、本人のために閉じ込めた、と両親の説明。家であれ精神病院であれ、長期の隔離による弊害、傷からの回復は難しい。オープンダイアローグなど隔離以外の治療が試み始められている。