2020年4月26日 復活節第三主日礼拝 ゼカリヤ書5章 マルコ福音書4章 宣教題「量っても量(計)られてもあかん」 金田恆孝

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ゼカリヤ書5章 マルコ福音書4章21-25節  宣教 金田恆孝

ゼカリヤ書56−11
6
 わたしが「これはなんですか」と言うと、彼は「この出てきた物は、エパ枡です」と言い、また「これは全地の罪です」と言った。7 そして見よ、鉛のふたを取りあげると、そのエパ枡の中にひとりの女がすわっていた。8 すると彼は「これは罪悪である」と言って、その女をエパ枡の中に押し入れ、鉛の重しを、その枡の口に投げかぶせた。9 それからわたしが目をあげて見ていると、ふたりの女が出てきた。これに、こうのとりの翼のような翼があり、その翼に風をはらんで、エパ枡を天と地との間に持ちあげた。10 わたしは、わたしと語る天の使に言った、「彼らはエパ枡を、どこへ持って行くのですか」。11 彼はわたしに言った、「シナルの地で、女たちのために家を建てるのです。それが建てられると、彼らはエパ枡をそこにすえ、それの土台の上に置くのです」。

マルコ福音書4章21-25節
4:21また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
4:23聞く耳のある者は聞くがよい」。
4:24また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
4:25だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

宣教題【量っても量(計)られてもあかん】
イエスはユダヤ教の中で活動された。福音書はイエスをキリストと告白する、キリスト教団がすでに成立しており、その立場から各書は各々再構成されている。イエスが語ったであろう「ことば」は、私たちの言う「旧約聖書」を背景としており、キリスト教成立以前の意味をくみ取る作業は重要である。

「升の下」「寝台の下」「灯火」とは何か。

升は穀類を量る桶でありエファと呼ばれ、凡そ22L。ルツ記では、大麦の落ち穂を拾うと1エファ(十分な量)が与えられたとの話がある。「神の国は辛子種のようなものであり、人間が量れるものではない」との言葉もある。「あなた方が量る量りで量られる」そのはかり・升は貨幣とともに世の王・為政者たちが定めたもの。灯火は油を使う貴重なもの。ならば「升の下の灯火」とは、為政者たち、豊かな者たちの資源の独占ではないのか。寝台の下の灯火も彼らによる快適な生活のための資源の独占ではないか。ならば、燭台の灯火とは、からし種のような食料であろうと資源であろうと、一緒にいる人々全体のために神から与えられているものではないのか、とのイエスの声が聞こえてくる。

 ゼカリヤ書の七つの幻の7つめに「エパ升」がでてくる。升は全地の罪だという。神からのただの恵みを人が量り、値段を決め、金がなければ手に入らない商品にする。更に、コウノトリの翼を持った二人の女性がこの升を空を飛んでバビロンに運ぶビジョンが描かれる。第三の幻の中で、測り縄をもった人が登場するが、新たに再建されるイスラエルは城壁のない町、量りのない、境界線のない町となり、「わたしはあなたがたのただ中に住む」と主は語る。富んだ者たちによる土地の独占を主は嫌う、と読める。「五つのパンと二匹の魚」の出来事は、からし種と同じ、この世の「はかりで量る常識」からは起きない奇跡である。升の下の灯火、寝台の下の灯火もこの世の罪をイエスが告発していることばとなる。

では灯火とは何か。「主の前に灯火を点した。主がモーセに命じられたとおりである。」出エジプト40:25

「あなたはわたしの灯火(たましい)を点し、我が神、主は私の闇を照らされます。」詩篇18:28 

今日も灯火とともに礼拝したい。

先週の出来事
「ウィルスとどう戦うか」ではなく、ウィルスとどう共存できるかを考えようという呼びかけがあり、強く共感した。文明の便利さと快適さとを得た代わりに、住居や体内の雑菌、汚れ、微生物を排除し、除草剤をまき散らし(ベトナム戦争以来)、虫も住まない自然、雑菌のいない身体を快適なものとしてしまった私たち現代人への警告のひとつがコロナウィルスとも理解できる。

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