20200621 東淀川教会礼拝 創世記41章 ルカ福音書12章 宣教題「資本家とは」
創世記41章17~27節
17 パロはヨセフに言った、「夢にわたしは川の岸に立っていた。18 その川から肥え太った、美しい七頭の雌牛が上がってきて葦を食っていた。19 その後、弱く、非常に醜い、やせ細った他の七頭の雌牛がまた上がってきた。わたしはエジプト全国で、このような醜いものをまだ見たことがない。20 ところがそのやせた醜い雌牛が、初めの七頭の肥えた雌牛を食いつくしたが、21 腹にはいっても、腹にはいった事が知れず、やはり初めのように醜かった。ここでわたしは目が覚めた。25 ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。26 七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。27 あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。
ルカ福音書12章13-21節
12:13群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。12:14彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。12:15それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
12:16そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして12:18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。12:19[そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
宣教題「資本家とは」
イエスたちを政治的運動のリーダーに仕立てようとした人たちは多かった。遺産についての判断を求めたものその一例。イエスはそれを退けながら富・財産について人々に課題を投げかけた。
個人や家族や仲間とともに得意な事業や技術によって利益を得、周囲の人々と利益を分かち合う活動とは異なり、資源や食料を買い占め、人々を使役した経済活動によって得られた貨幣価値を独占し、経済の勝者として富を独占し、贅沢な暮らしをしている人がいる、と。そんな金持ちたちが今日で言う「大資本家」「総合商社」なのだろう。それは神の御心ではなく、一部の人しか富は分配されず、貧しい者を作り出すシステムになる。経済活動の独占、経済活動に参加できる者とできない者の分断などは競争原理によって非独占化されるべきなのだろう。ただ、それが軍隊によって守られた皇帝・支配者が、流通に通用する貨幣を限定し、徴税を行い、独占と分断を利用して富の享受に参加するとき、「貧しい者」「排除される者」がますます生み出されることになる。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に(マルコ12:13-17)」とイエスが語るとき、皇帝や国が定めた貨幣経済に参加するかどうかは個々人の自由であり、そこから得られた利益に対して税金を納めるのも個々の自由なのだろう。その活動と、神からの恵みを分かち合う活動とはまったく異なる、というメッセージなのだろう。
創世記のヨセフ物語は、国内の民を守るべき皇帝・為政者のなすべきことを示していると思われる。民を飢饉や災害から守るための夢が王(ファラオ)に示された。7年間の安定した収穫ののちに7年間の飢饉が来るとの夢解きを行ったヘブライ人ヨセフは、収穫がある7年間に全収穫の20%を備蓄し、かつ、買い取れるだけの収穫物(余剰)を買い占め、備蓄し、次にくる7年間の飢饉に備えよ、と進言し、人々は基金から救われる。
マタイ福音書6章19節「あなたがたは地上に富を積んではならない」は、“倉に富を積むのではなく、教会に寄贈しなさい”という邪(よこしま)な祭司長や教師たちの希望に利用されるべきではなく、事業拡大と利殖が本筋となる「資本」そのものの危うさ、誘惑について、イエスはさまざまなかたちで語っていたと思われる。
飢饉や災害に対する備え。これはその国に住む民の、最低限の衣食住を守るべき王の責任であり、それは今日の「国」が行うべき最低限の仕事・政治なのだろう。そのための納税ならば参加すべきなのだろう。ただ、それ以前に、貨幣の備蓄ではなく、自国の食糧生産、自給率を百パーセントに限りなく近づけることが政治の本筋だと思われる。
王や国に守られる民、国際経済に依存する民ではなく、まずは民が神の恵みの元に互いに収穫し漁り乃至は生産したものを流通させ生かし合う、ともに生きるための活動、そのためのシステムに帰っていくことが主の御心に叶う活動なのだと、イエスは語っていると思われる。それが「魚マーク(イクテュス)」の意味でもあると感じている。
先週の出来事
北朝鮮が南北連絡事務所を爆破したとのこと。中国のウィグル族への弾圧、米国大統領による黒人差別への抗議運動に対する強硬姿勢も、北朝鮮も、どこか“子どもじみた”大人げないつばぜり合いに感じる。沖縄各地、島々で進められている日米共同軍事施設の拡大、ミサイル追撃システムの混迷など、ガキっぽい馬鹿っぽいパワーゲームが、更に大きな人災・災害につながっていくような「ヤバさ」を感じている人は多いと思われる。