2020年7月5日 東淀川教会礼拝 イザヤ書21章 マルコ福音書13章 宣教題「世を見張る基準」

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マルコ福音書13章32〜37節 「目を醒ましていなさい」

13:32その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
13:33気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
13:34それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
13:35だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
13:36るいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
13:37目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。

イザヤ書21章1−7節 地の嘆きを嘆かれ、預言者を呼び出し、見張りとして立てる神

1 海の荒野についての託宣。つむじ風がネゲブを吹き過ぎるように、荒野から、恐るべき地から、来るものがある。
2 わたしは一つのきびしい幻を示された。かすめ奪う者はかすめ奪い、滅ぼす者は滅ぼす。エラムよ、のぼれ、メデアよ、囲め。わたしはすべての嘆きをやめさせる。
3 それゆえ、わが腰は激しい痛みに満たされ、出産に臨む女の苦しみのような苦しみがわたしを捕えた。わたしは、かがんで聞くことができず、恐れおののいて見ることができない。
4 わが心はみだれ惑い、わななき恐れること、はなはだしく、わたしのあこがれたたそがれは変っておののきとなった。
5 彼らは食卓を設け、じゅうたんを敷いて食い飲みする。もろもろの君よ、立って、盾に油をぬれ。
6 主は私にこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。
戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。」

宣教要旨 「見張りを立てられる基準」

 軍隊を持った国々が各々の“正義”を主張し、相手への殺戮数を競い、略奪を繰り返し、大地はおびただしい血を吸い込み、逃げ切れない難民は奴隷とされていく。イスラエルの民もまた、“強い国家こそがイスラエルの民を守る”という国家幻想のもとで“神のみを主とし神とともに歩む”ことを忘れていった。
 イザヤに語りかけた主なる神は、武器も富ももたない、翻弄され巻き込まれ苦しめられる最下層の人々の嘆きをともに嘆き悲しみ苦しむ神の姿であった。その神がイザヤを招きだし、世の見張り役として立て、ありのままの愚かしさ、重ねる罪について、王や為政者やそれに従う者たちに告げ、戦争の惨禍から逃れられる者は逃げよと告げよ、と言われる。しかも、イザヤに託された言葉は、王や為政者たちを主の言葉への理解や悔い改めへと至ることはなく、逆に苛立たせ、預言者を攻撃してくることは予定されている、というのだ。

 イエスもまた、世の見張り役として呼び出された。

 イエスはそれまでのユダヤ教に対して自身をメシアとする新たな教義や宗派、礼拝様式を作ったわけではない。が、私たちが読んでいる福音書は、十字架よりかなり年月を経た後、イエスこそメシアであり、モーセ5書や預言者の書などを完成・成就する神のご計画であるとする教義を前提に編集されたものであり、新たな宗派、教団形成を前提に編集されたものである。

 この「目を醒ましていなさい」とのイエスの言質を、“艱難の時は終わる” “イエスの再臨の時”に備えよ(マタイ福音書24章十人の乙女の譬え、ルカ福音書12章夜中に帰ってくる主人の譬え)などに用いている。

 が、イエスが語っていた「目を醒ましていなさい」は、神の名で人々を支配する神殿政治、支配者の煽動、世の噂、人の思いなど様々な方法で人の心を誘導しようとするものに対して「醒めていなさい」であり、預言者がそうであったように「冷静に世と対峙し、世の誤り見張りなさい」というものだった。

 世を見張り、過ちを決める「基準」は、イザヤ書52章が告げる“神が世のしんがりに立たれる”に如実にあらわされている。世が富める者、貧しい者、支配する者、服従を強いられる者、上下、貴賤を作り出す。
 嘆くことしかできない人とともに嘆く神は世の最も最後尾に立ち、神ご自身がそれを作り出す者を最後尾から告発し、悔い改めを求める、というものだった。

 世の見張り役を自負していた日本のキリスト教会も、戦時下において天皇とキリスト像を同列に並べ、天皇の臣民として国体の翼賛体制に組み込まれた。“教会を守るため” “弾圧を逃れるため”と後からいかようにも言い訳することは可能だが、現在の日本キリスト教団もこれによって成立した組織であり、教団を挙げて戦闘機を軍に献納したり、満州支配にも積極的に加担した過去を持ち、今も国体翼賛を目指しているキリスト者、教会は多い。この敗戦国の“民主主義”は、この国の民が自らの手でつかみ取ったものではなく、“あんなみじめな戦争はできれば避けたい”程度の「平和主義」と、“良い人でいたい”程度の「民主主義」でしかない。

先週の出来事

熊本の球磨川が大雨で大氾濫。鹿児島県も含め土砂災害、家屋が流されるなど、死者、行方不明者など被害が広がっている。東京都で新たに131人のコロナ感染を確認。“PCR検査を徹底しろ!” “感染者は隔離”などの声が高まることが恐ろしい。スペインのカタルーニャ地区がコロナ感染で封鎖。香港から民主活動家が国外脱出へ。朝鮮半島は軍事境界線を挟んで緊張が高まっている。
 昭和維新の歌の思想は受け入れられないが、歌の一部だけはメロディとともに懐かしくよみがえる。
“汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ” 
財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を念ねがう心なし” 
“ああ国栄え人亡ぶ” (もとの歌とは逆だが…) 
“天の怒りか地の声か そのただならぬ響きあり” 

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