2020年8月23日 東淀川教会礼拝 創世記2章21-25節 イザヤ書3章14-17節 マルコ福音書10章1-12節 宣教要旨「祝福と戒めの取り違え」宣教 金田恆孝
創世記2章21-25節
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
イザヤ書3章14~17節
14 主はその民の長老と君たちとをさばいて、「あなたがたは、ぶどう畑を食い荒した。貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある。15 なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか」と万軍の神、主は言われる。16 主は言われた、シオンの娘らは高ぶり、首をのばしてあるき、目でこびをおくり、その行くとき気どって歩き、その足でりんりんと鳴り響かす。17 それゆえ、主はシオンの娘らの頭を撃って、かさぶたでおおい、彼らの隠れた所をあらわされる。
マルコによる福音書10章1~12節
10:1それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。10:2そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。10:3イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。10:4彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。10:5そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。10:7それゆえに、人はその父母を離れ、10:8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。10:9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。10:10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。10:11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。10:12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
宣教題「祝福と戒めの取り違い」
生物学的には、人類の祖先は単性生殖だったらしい。つまりすべてが子どもを産むことができる「女性」。が、単性生殖の生物が同族繁殖を繰り返すとすべての子どもが同じ母からのDNAを受け継ぐことになり、単一的な環境にのみ適応できる身体となり、免疫的には外的なウィルスなどの侵入に対してどんどん弱くなってしまう。そこで生まれる子の身体の一部を変化させ、「男性」として分化させ、両性生殖により、各地に散って変化し多様化した異性同士による生殖により、多様な遺伝子と免疫力を手に入れられるようになったらしい。(男性にも乳首が残っている理由でもあるらしい)。
イーシとイーシャとに別れ、新たな遺伝子を持つ異性と出会い、それぞれが父母から離れ、各々が互いを助け手として一体となる。「産めよ増えよ地に満ちよ」とは、アフリカから世界に散った様々な人種が互いの違いを受け入れ、文化が混じり合うことに神の祝福が与えられる、と受け止めたい。
聖書に現れる「姦淫」の用語は、本来、神と共に歩む民(イスラエル)全体を「シオンの娘」と呼び、神なる「夫」との婚姻を目指す民が神との対話を忘れ、神ならぬものを神とし、単一の民族が他民族を力で支配し、自然を独占する傲慢な民となることを指す言葉が「姦淫」であった。
古代の遊牧生活、移動の生活では、狩猟、交渉、戦闘などの役割と共に、群れのリーダーは屈強な男性が引き受けることが多く、群れの中で子どもや老人や女性は強い男性たちによって守られ、結果的に女性は男性に従属するもの、という制度すら多くあった。モーセの「離縁状=奴隷的な女性の立場の解放」もまたそんな文化を背景としている。
イザヤ、そしてイエスが語る「姦淫」は、そもそも「神の民」を自称しているイスラエルそのものが神に対して「姦淫」していることこそが大問題であり、すべての人が「姦淫の民」であることを大前提としていると思われる。
死別したり様々な理由によって離縁した男や女が新たな人と契約を結ぶことはごくあたりまえの日常風景だった。エルサレムの神殿にも“神殿娼婦(夫)”がいたという記録もある。神に対する姦淫をそっちのけにして、男女関係だけで「姦淫」を取り立てて問題としているけれど、みんなもれなく「姦淫の民」なんじゃないか? と逆に問い返していると思われる。
先週の出来事
東京や大阪、名古屋など大都市でのオフィスにおけるコロナ感染の広がりは、早くであれ、ゆっくりであれ、止められそうもないと感じられる。ひとりひとりの命最優先と「建前上」いいながらも、国の経済力を支える企業活動をこの国は止めることはできないのだろう。結果的には、スウェーデンのような、全体が集団免疫を目指す方向に向かうしかないのでは、と感じられる。