2020年8月9日 東淀川教会礼拝 イザヤ書2章1-5節 マタイ福音書22章1-14節 宣教要旨「王権国家へのメッセージ」 宣教 金田恆孝
イザヤ書 第2章1-5節
1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。
2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。
マタイ福音書22章1-14節
22:1イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、
22:2「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
22:3王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
22:4そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
22:5しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
22:6またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
22:7そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。
22:9だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
22:10そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
22:11王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
22:12彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
22:13そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
22:14招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
宣教題「王制国家へのイエスのメッセージ」
共観福音書が成立した時代は、ローマなど王を頂点とした国に、各派(セクト)が潰されないよう、「王制」との調和を図ることが大きな課題だった。当時の王制と調和を図りつつイエスの王制へのメッセージを残す苦労が隠されていると思われる。
イザヤ書における「諸々の国のあいだを裁き」。これは「すべての国々の関係を裁く正義」の実現を目指した「国連」。そのビルの前にあるイザヤ碑文のことばであるとのこと。すべての民が至上の主権者であり、国は他国と戦うことを止め、あらゆる武器は生活用具に変えられる…国々は移動自由な、各自治に基づく村々に変わっていく…イザヤのビジョンは武装放棄の先にある。
イエスは明らかに名もなき草の民を服従追従させる王制についての断罪を止めなかった。十字架以後福音書記者たちは、王制を認めたうえで、良い王、悪い王、神の国の王、といったイメージにイエスの宣教を変化させることに苦心惨憺したと思われる。
本日のマタイ福音書の箇所は、王制の本質についてイエスの語った言葉が多く秘められている。
※王制は軍人と武器武力に依ってこそ成立し、収奪した富と徴税によって得た富を上手に操作し、恩恵と恐怖で地域の人々の目と心を自分に向けさせる。
※王は王や王家に係わる慶弔とその儀式に人々の目を向けさせ、セレモニーに参加させ、王家を讃え、王家の喜びを民の喜びとし、王家の悲しみを民の悲しみとし、死ぬまでの忠誠を誓わせる。
※王家に貢献した者、王に表彰された者は恩恵が約束され、特別な地位が約束される。が、このセレモニーに参加しない者、恩恵を喜んで拝受しない者は反逆者として罰せられたり殺される。
※服従しているふりをしても、王家に対して忖度しない者、王家に対する礼節をわきまえない者は恩恵や保障から排除されるか、追放される。
※王制は王や王家に喜んで従う者たちがいないと成立しない。食べ物やお金などでほっぺたをひっぱたいても人を集め、追従する人数の多さが王の価値を決定する。逆に言えば、人々が王から“回れ右”で逃げだし、王の下に留まらなければ王制は崩壊してしまう。
このような、目に見えない「強者」と「弱者」の関係を、ユーモラスに、子どもにもわかる視覚的なイメージを用いて人々に伝えたと思われる。
そんなイエスたちのメッセージが、いつの間にか「神の国に招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」というメッセージの方向に曲げられている。ルカによる福音書ではこの王が“貧しい人々やハンディを負っている人々をこそ招く良き王”としてメシアイメージと重ねられて表現されている。
何かで訴えられた場合は、警官に捕まるか裁判所に行く前に、相手と和解した方がいい(警官に捕まったり裁判で裁かれたらひどいことになる)とか、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出した方がダメージは少ない、などの“助言”は、王や王家や追従者たちを軽んじては危険だよ、という隣人への慈しみに満ちているが、イエスたちは、草の民に対する加害者たちへ、「悔い改めよ」とのメッセージとともに、批判のメッセージを主なる神から託された預言者的な役割として、あの十字架まで止めようとはしなかったと思うのです。
先週の出来事
原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょう原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)とは原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島、長崎への原子爆弾投下後後に米国が設置した民間機関。そこで検査された人たちの証言を報道番組で聞いた。日本の医師や研究者たちも動員されたが、治療もせず、検査を拒否しようとしても“協力しないと軍法会議”と脅され、解剖された検体も写真データも検査データも米国に持ち去られ、科学者、医師たちによる加害行為は戦後も続いた。“原爆は戦争を終わらせるため” “被爆者の調査は医学の発展のため”という加害“当事者”の感覚は今も続いているし、更に米国側の“リメンバー・パールハーバー”、「我々をヒロシマ、ナガサキの加害者と言うが、先にとんでもない攻撃を仕掛けた、太平洋戦争をおっぱじめたのは日本であり、真珠湾攻撃で殺された数多の無念を我々は決して忘れない」との“現在の証言”に触れて、武器弾薬爆弾以上に“戦争を継続拡大させるもの”にあらためて触れた思いでした。