20200927 東淀川教会礼拝 宣教題 ケッコンって何? 創世記2:24 マルコ10:6
創世記2章24節
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とはふたりとも裸であったが恥ずかしいとは思わなかった。
マルコ福音書10章6-12節
10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。10:7それゆえに、人はその父母を離れ、10:8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。10:9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。10:10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。10:11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。10:12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
マタイ5章27-32節
5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。5:31また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。(申命記24:1)5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
19:9そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
マタイ福音書12章46-50節
12:46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。12:48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
19:12母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
宣教題「結婚ってなんやろ」
イエスの時代、男18歳女12歳位が平均。婚約から結婚まで家族・親族・一族にとって最大の祭り。二人がペアとなることをみんなで承認し、祝うこと。同時にペアとなった男女いずれかを恋したり欲しがってはならないことを宣言する場でもあった。現代と異なるのは、互いの自由意志による契約でもなく、ペアの関係を財産の契約書のように登記するものでもなかった。姦通の罪とは本来、この一族や集団の黙契に対する違反という意味である。
古代ユダヤにも権力者やお金持ちが複数の女性を妻として、或いは召使いとして所有する現実があり、モーセの“離縁状を渡せ”の離縁状とは、男性による「所有」から解放しなければ女性再婚もままならなかった故でしょう。
“姦通・姦淫の罪”は、多くの場合権力者やお金持ちたちが女性を「所有」したり捨てたりすることを正当化する方便として利用された。イエスは一対のペア(二人でひとつ)に対する神の祝福を語っているが、こうあるべきという倫理やそれの違反の罪を語ってはいないと思われる。
異性に対して心の中で暗に情欲を抱くのが罪なら、人間はみんな罪人となる。人を罪に定めている人(祭司長も律法学者たちも裁判官も)みんな罪人だ、とイエスは語っている。「あなた方が子どもの時から今日まで、その目で見た女性の胸やお尻にドキドキしたり唇や身体に触れたい、触りたいなどの妄想を抱いたことがあれば、それは間違いなく姦淫の罪を犯したはずだからその目をくり抜きなさい。触りたいと思ったその手を切って捨てなさい。姦淫の罪を教えているのだから、あなた自身が本気でやりなさいよ!」とイエスは語っている。
身体を商売の手段として生計を立てるしかない人を姦淫罪に定めようとする秩序側の人間たちに対して、「罪人であるあなたがたがこの人を罪に定めて石を投げられるハズがない」とのメッセージを発していたと思われる。
のちに、「キリスト教」が成立し、勢力が拡大していくなかで、人々は新たな「契約に基づくあらたな律法」「倫理」を求めるようになった。それとの調和を図ろうとする努力は読み取れるし、新たな倫理性を打ち立てたからこそ、ローマの国教として受け入れられることになったと思われる。
イエスの活動を罪(或いは異常者)とし、家族親族で引き取って黙らせないと一族みんなの責任となるぞ!みたいな恫喝があったと思われる。それに対してイエスは血族なんぞを超えた敬うべき父母、大切な兄弟関係があることを指し示す。それは血族に縛られている人々にとっての解放であった。
また、人は結婚するのが当然とか、男が女を所有し保護する、とか、女とは子を産むもの、などの“時代が作り出した”概念や規定を、神が定めたものではないとして本質的に「無効」であることを宣言していると思われる。
先週の出来事
TIME誌が選んだ「最も影響力のある100人」に入った大坂なおみさんと伊藤詩織さん。実名でその身を晒して被害を明らかにし、加害者を訴えているにもかかわらずこの国の司法は加害者を不起訴処分とした。ジャーナリストとしての彼女の行動に拍手を送ると同時に、いまこの不起訴処分にあきれかえり、「もっとも影響力がなくなった日本」を正しく表現している。