20201206 東淀川教会礼拝宣教要旨 「一人で蔑まれ捨てられるために」
イザヤ書/53章 3−7節
3節 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。/人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。
4節 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。
5節 彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
6節 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。
7節 彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。/屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。
ヨハネによる福音書13章26−27節
26節 イエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
27節 ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。
マタイによる福音書/27章 46-47節
46節 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47節 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
宣教要旨 宣教題「一人で蔑まれ捨てられるために」
ユダヤ教の中心とされている、イエスたちが最後に乗り込んだエルサレム神殿前広場。
多くの民衆が期待した大変革、そのための戦いに来たのではなく、ロバの子にまたがって入場したイエスの行いは非暴力の宣言であり、神殿中心の人々に服従を強いて支配する信仰に対し「悔い改め」を求めるものだった。が、イエスを“来たるべきメシア”、“ダビデ王の再来” 世に弱くされている社会的弱者、地の民(アム・ハーレツ)を自由へと解き放つ解放者として、或いは本来的な信仰の原点、「神とともに歩む民」へ戻ろうとする、熱狂的にイエスに期待する人々はユダヤ人にも異邦人にも多かったと思われる。
イエスたちを敵視している神殿政治勢力(サンヘドリン)、ヘロデ王、更にその無効にはローマ帝国がイエスたちや、彼らに追従しようとする熱狂的な民衆の前に立ちはだかっていた。反乱、暴動、弾圧、逮捕、虐殺、追撃などが予測されていたと思われる。ますます膨れ上がっていだであろう熱狂状態は、武力弾圧、多くの被害、死者を生み出すことになる。
イエスはこの“神の国”宣教の行き着く先を、イザヤの指し示していた“たった一人で蔑まれ、捨てられる偽メシア” という宿命、結末をひとりで引き受けることと定めていたのではないか。それが、熱狂から始まる反乱と、それに対する報復・鎮圧による多くの死者、犠牲者が生まれることを防ぐため。処刑されるのは一人に止める。そのためには、イエスが捕まるときに、主だったメンバーが「イエスなんて知らない、関係ない」とみんな逃げ出すこと。更に、仲間たちみんなから信頼されていたイエスの弟子から裏切られ、お金で売られ、嘲笑の的となること、更には、イエス自身が、神に見捨てられたことをおおっぴらに告白すること(エリ…エリ…)。
それにより、最も惨めな立場のイエス以外に対する、神殿からの、ヘロデ・アンティパス王からの、ローマ側からの弾圧、迫害が及ばなくなる、という唯一の道をイエスは用意したと思われる。
イエスを裏切った末に自殺したとされるユダは、最も信頼していた仲間から裏切られ、金で売られた惨めな首謀者、という嘲笑の的を作り上げるために極秘の内にイエスから依頼を受けていたというあらすじが全体の構図から考えると導き出されるように思う。それがヨハネによる福音書にさりげなく記された「しようとしていることを、今すぐするがよい」は、裏切りがわかっていたというよりも、イエスからの依頼だったことをさりげなく残したのではないか。
先週の出来事
関西電力大飯原発3、4号機の設置許可を取り消した4日の大阪地裁判決。新規制基準に基づく大飯原発への許可を「違法」と断じた大阪地裁判決。原発の安全審査を続けてきた規制委の報告書が、はじめから結論ありきの調査、数字であることを指摘しての判決だったと思われる。司法への希望を感じる。