20210718 東淀川教会 礼拝宣教要旨「おかねってなに?」宣教 金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書14章 2節
もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。
イザヤ書24章1-6節
見よ、主は地を空しくし、荒廃させ地の面をゆがめ、そこに住む者たちを散らされる。民も祭司も、奴隷も主人も、女奴隷も女主人も売る者も買う者も、貸す者も借りる者も債権者も債務者も同じようになる。地はくまなく空しくされ、ことごとく略奪される。この言葉を主が語られた。地は乾き、しぼみ世界はしおれ、しぼむ。天も地と共にしおれる。地はそこに住む者たちの下で汚された。彼らが律法に背き、掟から逸脱し永遠の契約を破ったからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くしそこに住む者たちは罪の負い目を受ける。それゆえ、地に住む者たちは減り僅かな人間だけが残される。
マタイによる福音書25章
14-15節
「(あなた方の求める)天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて、旅に出た。
19節 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20-21節 まず、五タラントン受け取った者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『ご主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
24-25節
一タラントン受け取った者も進み出て言った。『ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
30節 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
宣教要旨『おかねってなに?何がたらんとん?』
イザヤの、エルサレム神殿を中心とした「ユダヤ教」、堕落したイスラエル人に対する裁きの言葉は厳しい。
イザヤは、かつてエジプトで惨めな奴隷だったのに主の導きで解放されたこのイスラエル民族が南北に分裂し、王政国家により傲慢な民となり、他国の人を奴隷とし、お金の奴隷だったのに、今は弱い人々からお金を取り立てて苦しめていることを厳しく非難している。
平たく言えば、『イスラエル人って、エジプトで体も心も惨めな奴隷だった。アブラハムからの、「神とともに歩む民」イスラエルとしての意識も信仰も失いかけていた。それを神がモーセたちを用いて、解放してくれたんだよなあ。それが今じゃどうだ!強い国家を求め、王を求め、富を求め、他国を攻め、弱い人々を金で支配し、人を奴隷として使うまでになった。人が人を奴隷として扱うことを許さない神だったんじゃないのか! なぜそれが平気でできるようになったのだ!』
更に、『新しいメシアが現れ、神殿を中心としたユダヤ国家を、強固な「神の国」としてくださる、もっと多くの奴隷を使うことのできる豊かな国になりたい、なんて思っているような愚かな民は、神に撃たれて死に、土地も失い、生き残った人々も世界に散らされるだろう』、と言い放った。 やがてその通りになった。
2千年後、第二次世界大戦後の、「やはり、我々には強い国家が必要だ」とイスラエル国がパレスチナの中に建国されたことをイザヤはなんと語るだろうか?
「神の国はいつ来るのか」
イエスを「メシア」と持ち上げる人々は、ローマやその傀儡政権からユダヤ国家を立て直し、信仰のリーダーとしてイスラエルの民を屈辱から解放してくれ、かつ、政治的、経済的、軍事的リーダーを兼ねた王、メシア、救い主などの願望をイエスに寄せた。その「解放の時」はいつか=神の国はいつ来るのか、の問いに答えたのが十人の乙女のたとえ、そして本日の「タラントンのたとえ」だろう。
十人の乙女(賢い乙女と愚かな乙女)のたとえは、神の裁き、いかなる変動がいつどのように起きるか人にはわからない。出エジプトのように、準備を怠らず、目を醒まして、いつでも動ける、逃げ出せるようにしていなさい、とのメッセージが感じられる。
マタイの25章14節の「神の国は‥」は、人々が「神の国はいつ来るのか」とイエスたちに迫っていた状況を考えれば、「(あなた方の求めている)神の国は‥」と読むのが自然だろう。
タラントンは、一般の人が聞いたことのある、全体の経済を動かす大金の単位である。現代ならば「億」の単位か。為政者は軍事力のみならず、経済に不可欠な貨幣を作り、大金を集め、世を動かそうとする。主人(王、金貸し、資本家)は人々を従属させ、働かせ、主人に富、利益をより多くもたらす、主人を太らせる雇い人をその貢献度に応じて大切にする一方で、服従しない、協力しない者、異議を申立てる者に対しては罰して、全てを奪い、外に放り出す、とイエスは語る。「あなた方はそんな王、国家、リーダーを求めているのか?」という問い返しであろう。
宗教改革の後、カトリック教会のさまざまな束縛から離れたプロテスタント教会のキリスト者たちは、活発な経済活動を行い、植民地政策を広げ、資本主義経済の立役者が多かった。その時、この「タラントンのたとえ」を、神への貢献、教会への貢献のため、各々に神から与えられたタラント(タレント・才能)を活かして社会や教会に貢献すること、それが信仰であると、イエスの言葉とは反対の読み方をしてきたと思う。
“いのちってなに?”の問いも、“おかねって何?”の問いも、子ども達にとって重大な疑問である。なぜ大人たちはお金の奴隷のようになっているのか。お金のことで苦労しお金のことで不幸になるのか、など。なぜ塾代を払い勉強して大学を目指さなければならないのか? 大人たちは正面から答えない。イエスは「人間が作ったおかねなんかなくっても、生きていける、生かしあえる社会が、神さまに喜ばれる社会だよ」とこどもたちに語った(皇帝のものは皇帝に、神のものは神に)。
ユダヤ人の社会では、幼児期から貨幣について、貨幣のレートについて、貨幣に代わる金融商品について教えられるという。親の商売、賃金、家計、ローンなどの現実に即して教え、学歴による生涯賃金の格差、日本ならば大学卒2〜3億円 高校卒1.5億〜2億 中卒1億〜1.5億 派遣社員1億円、という格差社会であることを教え、お金との向き合い方を厳しく教えるという。
本質的なことを教えたり一緒に学んだりせず、「勉強しなさい!」だけでは、「勉強できないやつはダメだ」のメッセージが心の闇に溜まり、ダメになることへの恐怖を抱きつつ、子どもたちの心はますます世界から遠ざかるか、「顔なし」になっていってると感じられる。
先週の出来事
東京都の感染者数の上昇、オリンピック選手団や大会関係者の逸脱行為が報道されている。オリンピックも基本はお祭り。ハメを外して応援し、バカになって興奮できるカーニバル。国がまつりを(経済のため?)主導しておきながら、「でかけるな、騒ぐな、酒は飲むな、室内で参加した気分になれ!」とは、マツリの神々も呆れるだろう。これって、始まる前から“あとのまつり”だと思う。