20210815 東淀川教会礼拝 「呪いと熱狂」宣教 金田恆孝
詩篇41篇7−11節
7節 見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り 悪事を集め、外に出ては言い触らします。
8節 私を憎む者は皆、私のことでささやき合い 私に悪をたくらみます。
9節 「不吉なことが彼に起こっている。彼は倒れ伏して もう立ち上がることはできない」と。
10節 私が信頼していた友さえも 私のパンを食べながら 威張って私を足蹴にします。
11節 しかし主よ、あなたは私を憐れみ 立ち上がらせてください。私は彼らに報います。
イザヤ書53章3−6節
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。/人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。
彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。
マタイによる福音書 26章
23節 イエスはお答えになった。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。
24節 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」
25節 イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
宣教 「呪いと熱狂」
国家間の戦争や民族・部族紛争が引き起こされる「決して許すことのできない呪い」もあれば、犯罪や事件や、さまざまな争いにより生み出される“呪い”もあります。イエスは打ちひしがれている心を支え、悲しみや怒りから生み出される「呪い」を、“課題(テーマ)”へと変えてくださる主だと信じています。
詩篇の中で、「呪い」が「祈り」となっているのはこの41篇、109篇などがあります。ヨブ記もですが、許すことの出来ない「敵」に対して呪い、復讐・報復を神に願い求める心は、肉親や友人や他者の説得など決して届かない「命懸けの熱情」であったりします。祈りとは、決して綺麗事ではないことをこれらの詩篇からも思い知らされます。
最後の晩餐の場面で、イエスがユダに対してぶどうの汁を浸したパン切れを渡し、「しようとしていることを今すぐしなさい」と送り出されたイスカリオテのユダ(ヨハネ福音書)。そのユダについて、「彼は生まれてくるべきではなかった」の、まさに存在の否定、呪いの言葉がマタイ、マルコ福音書に記されています。
主な仲間の一人であり、様々な悪霊を追い出したと記されるイエスが、悪霊が入ったユダを呪う、生まれてきたことを否定するというのは、どうあってもイエスの言葉とは思われない。なぜ、決して許されることも救われることもない、永遠に憎まれ呪われ続ける「イスカリオテのユダ」というキャラクターが演出される必要があったのでしょう。ユダの受け取ったと言われる銀貨の行方も、死亡場所も記述されてはいない。
『マタイ福音書』ではユダは自らの行いを悔い祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したことになっており、『使徒言行録』ではユダは裏切りで得た金で買った土地に真っ逆様に落ち、内臓がすべて飛び出して死んだ、というサタンの結末、懲悪物語がとってつけたように文字化されていますが、事実の記載としてはあまりに怪しい。
永遠に許されることのない、全ての人々から捨てられるユダは、神からもたった一人で捨てられるイエス(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、神への呪い)の予形(予型)だったのではないか、と思うのです。
イエスやその仲間たち、追従した多くの人々、イエスに癒された人々の反乱を一人の罪として引き受け、イエス以外の死者を出さなかったこと。それは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され 私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。 その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。」(イザヤ書53章)が実現するために、欠かすことの出来ない重要な役割をイエスとともにユダが担ったのではないか。
ごく最近、NHKのドキュメント番組で中国の文化大革命、天安門事件の背景を貴重な映像資料で少し知ることができました。奴隷状態になっている貧しい農民や一般大衆の非奴隷化・解放を旗印にした共産主義革命運動から始まった大衆の熱狂が、「絶対的メシア」「救世主」「無謬の指導者」を生み出し、批判を許さない独裁者を作り出していく歴史的悲劇の一端がよく描かれていると感じました。
イエスとユダの共謀があったとすれば、それは動き出したら止まらない「熱狂」「反乱」をまず防ぐことにあったのではないか。
その視点から聖書を見直すと、伝統的なキリスト教が伝えてきたものとは異なったものが視えてくると思われる。
先週の出来事
新型コロナ陽性者数過去最高のニュースが日々更新されている。人々はもはや「過去最高」に驚かなくなっている。その一方で、日本における全体の死者数の、月間10万人、年間120万人の死亡者数はむしろ減っているとの報道がある。冷静な分析と正しい情報提供、その上での個々の判断の尊重が見直されていい頃だとも思われる。
0815の礼拝宣教「呪いと熱狂」を聴いていて思った。今もずっと歴史的な裏切り者になっているイスカリオテのユダは絶対可哀そうだ。他の弟子たちもみんな、一度はイエスを裏切っているのに、みんな聖人になっている。なのに、なぜユダだけが汚名をそそげないのか、めちゃめちゃ不公平だ。今、宇宙から歴史から、新な発見や解釈で、それまでの常識や偏見が次々と覆されている。「ユダは決して悪くない」という仮説のもと、考古学も動員して、彼の無罪を立証しましょう。しかも総てが神の意志だとすれば絶対ユダだって許される。あの明智光秀だって再評価され、みんなが好きになっている。歴史は見直されて当然。そうすれば、キリスト教自体が教条的ではなく楽しく進化していけるし、みんなに興味や共感されたり、受け入れられる余地が増えると思う。みんなの合言葉にしましょう「ユダは悪くない」