20211121 礼拝宣教要旨「全ての人の子は神の子」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

創世記1章 26-28節
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

申命記32章 5節
彼らは主に対して悪を行い その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。
イザヤ書22章 13節
ところが、お前たちは喜び祝い 牛を殺し、羊を屠り 肉を食らい、酒を飲み「食べたり飲んだりしよう どうせ明日は死ぬのだから」と言う。

マルコによる福音書2章10−11節
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」

マルコによる福音書2章 28節
だから、人の子は安息日の主でもある。

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宣教の要旨「すべての人の子は神の子である」
 アブラハムから始まったイスラエルの民(神とともに歩む民)は唯一の神に導かれていたが、他の民族・神々のことは知っていた。だから創世記は「神々」で始まる。神々に創造された、生まれた人は誰でも神の似姿であり、神に愛される「神の子」だった。
 愛され導かれ生かされる「人」が、智恵と力により傲慢となり「生きる」今の幸福を求める我・我らとなり、“よこしまな歴史”を築いてきた。

 放蕩息子の譬え話は、人の親(創造主)なる神を離れ、神を思わなくても生きている「人の子」に対する、「“神の子”に帰れ」のメッセージとして理解できます。
「人の子」は本来かけがえのない「神の子」であり、人を裁く「法」や規則よりも“上”なのであり、裁きで人の希望を奪う、殺すことや、人として扱わない行為は禁止されている。

 イエスが「人として扱われない人々」を回復させ続けた行為は、「神の子である人の子」の尊厳を回復する行為だった。同じ人を同じ同胞として差別し疎外する人々に対し、“神の子に対してあなたがたは何してるのだ!”がイエスの日々の叫びだったと思われます。

 「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」とは、個人的であれ、構造的であれ、他の人を裁き、赦さず、貶めているのだから、逆に神の子として回復させる力も術も持っているのだ、と私たちに迫っていると思われます。

 わたしたちの周囲の、“しんがり”(最後尾)に置かれた人々、闇の中に置かれた人々、最下部に陥れられた人々の“神の子”としての尊厳を回復すること。それが私たちの「神の子」としての尊厳を回復することだとイエスは今も語り続けていると思うのです。

先週の出来事

 障害者施設に収容されている重度知的障害者に対する、抗(向)精神薬過剰投与(トンデモ処方)の相談がありました。「福祉と医療が協力(結託)するとロクなことにならない」としか思えない現実が身の回りにあります。“すべての処遇や処方が誰にでもチェックできるガラス張り”になればと願います。

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