20220102 東淀川教会礼拝 宣教要旨「神々との対話」担当 金田恆孝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
創世記1章 26節
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
創世記3章 22節
神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
詩編86章 8節
わが主よ、神々のうちに、あなたに並ぶ神はなくあなたの業に並ぶべきものはありません。
ヨハネによる福音書10章 30〜39節
…私と父とは一つである。」
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば、父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。
もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」
そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
宣教主題「神々との対話」
創世記にも、詩篇にも「神々」が登場します。アブラハムやモーセを経由してイスラエル民族に伝えられた神話は、神々の物語から始まったと考えられます。多くの神々の中からひとりの神と契約が文字として成立した。それが十戒なのでしょう。
「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」とは、地上に褐色系も白色も黄色もあり、肌色のみならず様々な特徴を持った人種が現れたのは、様々な特徴を持った神々に似せて人間が造られた結果である、という理解がすでにあったことを示しています。イエスもまた“神は唯一である”とは語っていません。また、生まれてくる人間が決して五体満足な人間ではなく、目が見えない、耳が聞こえない、ハンディを背負って生まれてくる人がいる理由として、目が見えない神、耳が聞こえない神、ハンディを背負っている神々に似せて人が造られている、と語られたのではないか、それが“神の栄光を表す”という表現だったのではないかと想像するのです。
イスラエル民族は神々の中から、アブラハムからモーセへと受け継がれてきた、イスラエル民族を導く一つの神との契約関係を継承してきた。イスラエル民族以外の多くの民が、それぞれの神を信仰していることは理解し、様々な神々の中で、イスラエルを導く神こそが最も素晴らしい神であると告白している(詩篇)が、他の神々を、“それは神ではない”と否定することはなかったし、あり得なかった。キリスト教以外の「神」を否定するようになったのは、古代ローマ帝国の国教となった以降のことと思われます。
マタイ、マルコ、ルカ福音書が成立した頃は、“唯一の神に導かれる神の民”の教団、組織づくり、布教が急務であり、多様な神々に導かれる多様な民族という側面は除外されていたが、ヨハネ福音書に至って、イエスの、人間の多様性の背景にある神々の多様性についての、イエスのメッセージを、一部ながらも復活させたと思われるのです。
そもそも、「自分達の信仰する神こそが真の神であり、それ以外は神ではない」とするのも、「自分たちこそが最も神に近く、自分達だけが救われる民である」という傲慢さは、人間たちが作り出した独断的信仰であり、イデオロギーである。自分達の神理解や、信仰のあり方が、神や神々に喜ばれるものであろうという謙虚な確信はあって良いが、一つの神理解を絶対化し、それへの信仰を唯一絶対の信仰とするのは、他の神々を排斥し、絶対化した神を利用して自分達を絶対化するという傲慢に陥ってしまった人間の「罪」であろう。
ハンディを背負った人間がなぜ生まれてくるのか、本人の罪か、先祖の罪か、という問いに対し、イエスが答えた「神の栄光が現れるためである」とは、「様々な神々の中には肌色の違い、特徴の違いだけでなく、目の見えない神も聾唖の神も、病気の神も、様々なハンディを抱えた神々もいて、それら多種多様な神に似せて人間が造られているのだから、神の栄光を表しているのだよ」というメッセージとして理解できる。
イスラエルの神信仰が多様な神々、及び多様な信仰、多様な民族を前提としていたことを再認識し、イエスもまたヨハネ福音書が伝えるように「神々」を語り、神々の中で、「あなたはどの神をあなたの神としますか?」と問いかけていたと思われます。
現代は、自分や自分達とは異なる感覚(センス)、「普通」や「常識」と名付けられた共通感覚を基準として、自分には合わないものを差別し、切り捨てて、多様な存在、多様なあり方に想像力が働かなくなっている時代なのでしょう。
イエスの時代まで受け継がれてきた「神々の多様性」と、それに呼応する人間の多様性の認識を再度獲得することが、現代の大きな課題、互いの人間理解や神理解、民族性、文化の多様さ、性の多様さ、様々なハンディ理解など、それらをどう受け止め合えるのかが、次の世界を模索する第一歩に繋がると思われるのです。
先週の出来事
京都大学のスーパーコンピュータに保管されていた約3400万ファイルのデータが消失したと発表。メンテナンス業者の過失らしい。ハッキングや電磁波による、敵からの攻撃への対策が叫ばれるが、敵ではなくても、保守メンテナンスする人間(たち)の僅かな勘違いで巨大データが飛んでしまうのでしょう。複数、多数の人間がチェックしていれば…… .元来の人間がチェックしていても起きてはならない事故は起きてしまった。愚かな人間たちが作ったものですから、と言えばそれまでだし、3400万ファイルのデータが消失しただけなのか、外部に流出しなかったのかは不明だし、巨大PCのデータ管理すら実は難しいことなのでしょう。巨大スパコンの暴走が、様々な機器の制御部分を暴走させることはないのか… 不安は広がる。