20220213 礼拝宣教要旨「まだわからないのか!」創世記19:3 マルコ福音書8:14-21 担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
創世記19章
 しかし、彼がしきりに勧めるので、彼らはロトのところに立ち寄ることにして、家に入った。ロトはもてなしの食事を準備し、種なしパンを焼いたので、彼らは食事をした。(3節)

マルコによる福音書8章 14~21節
 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。(14節)
 その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。(15節)
 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。(16節)
 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。(17節)
 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。(18節)
 私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。(19節)
 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、(20節)
 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。( 21節)

宣教の要旨「なぜわからないのか」

「種入れぬパン」と「種を入れて発酵させ焼いて膨らませたパン」について
 「イスラエルの民」とは「神とともに旅する民」。持ち物は最小限にすべき旅の中では、かさばらない「種入れぬパン」が歩きながらでも食べられる行動食であり、一緒に食べる時も主食となる。発酵させ焼いて膨らませたパンは駐留・滞在期間が長い時のパンである。

「移動」から「定着」生活に移った後も、“神とともに移動する民”であることを心に刻むべき場面では、「種入れぬパン」を食べることにしていたと思われます。

 五つのパンと二匹の魚から始まった5千人の食事(6章41節)も、七つのパンと小さな魚が少し、から始まった4千人の食事(8章6節)も、イエスたちの行動から考えれば、用いられたのは“種入れぬパン”(行動食)だったと思われる。パン種で膨らませったパンは貨幣で購入しなければならない商品(6章37節)だった。


 イエスの『ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』とは、イエスたちの活動がとても緊張状態の中にあったことが窺われます。一方では「律法を破壊するものだ」と攻撃し続けているユダヤ教勢力と、一方では、ローマの傀儡政権(ローマへの忖度政権)であるヘロデ王による、「ローマに対する反乱分子の取り締まり」攻撃が非常に高まっている、挟み撃ち状態であることへの認識を促す比喩と思われる。


 「パン種」の比喩は、貨幣経済、法秩序を含む“支配者による秩序”に従っていれば美味しいパンを購入できるが、逆らえば食べ物にすらありつけない、場合によっては反乱者として逮捕するという、誘惑と脅迫の両面を表している。


 イエスたちは「難民の炊き出し」に向かっているわけではない。仲間の一人は、配るためのパンを購入するためのローマ貨幣デナリがないことを心配していた、とあります。

“何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな。神は私たちに必要なものをご存知であり(ただで、神が造られた自然の中で、さらに付け加えれば、支え合う隣人たちとともに)養ってくださる”がイエスのメッセージだった。

 軍隊や権力に服従し忖度し守られ、配られる貨幣に依存して商品としての美味しいパンを手に入れることはできる。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と語ったイエスが指し示しているのは、いのちの主なる神によって生かされる道、奴隷状態からの解放(新たな出エジプト)への道だった。5千人の食事、4千人の食事で起こった奇跡は、膨らんだのはパンではなく、主なる神こそがわたしたちを養ってくださってあまりある恵みの現実だった。

 イエスの“なぜわかろうとしないのか 心が頑なになっているのか” “目があっても見えないのか 耳があっても聞こえないのか”など、悲痛な叫びが響いてきます。イエスの悲痛な叫びを、私たちはこの現代の、今、ここに生きている私たちへの悲痛な叫びとして聞くべきと思われる。国家の生存保証・安全保障政策や貨幣システムや条例などに忖度し依存していれば、最低限の膨らませたパンを購入できる貨幣を手に入れることができるが、そうでなければこの世で生きてはいけない、という、無言の脅迫と、生じる不安は今日限りなく高まっていると感じられる。自殺率の高さ、引き籠り状態の多さもこれを示していると思う。

先週の出来事
 北京冬季五輪の舞台は中国が国の威信をかけて造り出した「100%人工雪による白銀の世界」であることがNASAの衛星写真からも明らかになった、とのこと。もう冬季である必要もなく、科学技術で作られた雪もどき、氷もどきで十分。不安定で危険な“自然”はいらない、ってことか。ハワイでだって、雪と氷のオリンピック祭典はできる。これを「進歩」と見るか、自然に生かされなくなった人類の悲哀、あるいは病理として見るか。 なんかなあ。

 

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