20220626 東淀川教会 宣教要旨「イエスによる12人の派遣は何のため」担当 金田恆孝
聖書 エゼキエル書 16章 4節
「誕生について言えば、あなたの生まれた日に、へその緒は切られず、水で洗い清められることもなく、塩でこすられることもなく、布で包まれることもなかった。
列王記下 2章 19−22節
町の人々はエリシャに言った。「御覧のとおり、この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です。」するとエリシャは、「新しい器を私のところに持って来て、そこに塩を入れなさい」と言った。人々がそれを持って来ると、
彼は水が湧き出ている所へ出向き、そこに塩を投げ込んで言った。「主はこう言われる。『私はこの水を清めた。もはやそこから死も不毛も起こらない。』」
エリシャの告げた言葉どおり、水は清められて今日に至っている。
マタイによる福音書10章 1節
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。
マルコによる福音書6章 07節
イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた。その際、汚れた霊を追い出す権能を授け、
マルコによる福音書9章 38-40節
ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。
マルコによる福音書 9章 49-50節
人は皆、火で塩気を付けられねばならない。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
ルカによる福音書 9章 1節
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊を追い出し、病気を癒やす力と権能をお授けになった。
ヨハネによる福音書 9章 10-11節
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
宣教要旨「イエスによる12人の派遣は何のため」
原始キリスト教団の中心人物でもあるパウロはイエスたちの行為総体をヘレニズムにおける「愛」 “アガペー”というイデオロギーの言葉、概念で表現した。12人の派遣も「神の愛を伝えるため」ということになる。キリスト教が日本に伝えられ、拡散のために最も用いられた言葉は「愛」の概念だった。クリスチャンの家に一冊はあると思われる遠藤周作『イエスの生涯』によれば、イエスの活動総体が「神の愛」の伝道活動、という理解です。パウロの「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない…」に続く言葉も、「もっとも大切なのは愛であり、もっとも美しいのは愛であり、普遍的価値=神さま=愛であり、人が生きる目的は神の愛=まことの愛を目指すことなのだ」という、「愛」という概念への“心理誘導”と理解できます。仏教的に言えば仏の愛を悟ることになるのでしょうか。1972年に井上陽水の唄った「愛は君」の歌詞「愛は空 愛は海 愛は鳥 愛は花 愛は星 愛は風 愛は僕 愛は君」は、キリスト教が伝えた「愛」を巡って“こころがぐるぐる回っている”様子を描いているように感じられます。
イエスが伝えようとしたことを西欧的な「愛の神」で表現し理解することにけっして異論があるわけでは無いが、そこに「ズレ」があると思うのです。 イエスは“愛”という言葉を用いなかったし、「神」や「信仰」を「概念」で表現しなかったと思います。
イエスの活動の多くは、人間たちが作り出した世の最後尾(闇、影)に置かれた“神の子”たちの復権活動であり、「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)ための12人の派遣だったと思われます。その活動は、神による「個人」への働きかけの手伝いであり、その個々人が神に新たに生かされる道を開くことだった。が、多くの人々が「イエスに癒していただいた」と言い広めた。イエスこそスーパースター!と。その「ズレ」にイエス自身が苦しめられたわけです。
イエス、そしてイエスたちの治癒を中心とした行動は、ときに「病」を「働き人」に移す(感染させる)行為であり(働き人に移された、引き受けたものを癒やす“スーパービジョン”も行われたでしょう)、患部を水に浸す沐浴であったり、香油や薬草による治療であったり、古来より用いられた塩による治療であったり(焼き塩を患部に当てる療法は古来から行われていた)(てんかん発作を起こした人に塩水をのませる、という療法もあったようです)、病んでいる人が恐れている悪霊に向かって一喝し去らせる心理療法であったりと、様々な治療が試みられていたと思われます(日本でも明治時代までは、修験道の山岳修験者たちによる治癒行為が行われていました)。旧約聖書では神との“塩の契約”が重要視され、食生活の基本、数多くの塩による治療、浄め、腐敗と酸化防止などに用いられてきた記録があります。そこには、自然から離れた人間を自然の摂理に戻していくという哲学があったように感じられます。自然環境から生かされ、癒やされる術を多く見失っている現代。塩との関係について見直すことも、とても大切なことだと感じています。
先週の出来事
6月17日、原発事故の国の責任を巡って、最高裁判所は「実際の津波は想定より規模が大きく、仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても事故は避けられなかった可能性が高い」と判断(?)し、(原子力発電が国策として推進されたのではあるが)国に責任はなかったとする判決を言い渡したとのこと。最近起こった米国の18歳による銃乱射事件も「このような銃の使用は想定外」であり、ある程度の予防措置は行うが、銃そのものの所持は不可侵の個人の権利であり、銃規制そのものはできないとのことらしい。日本の司法判断も米国のそれも、どちらも「出来てしまったものはいまさら戻れない」という無力さの別表現に聞こえます。賠償する・しない、のための司法判断ではなく、「核エネエルギー」や「銃」の事故を防ぐ手だてを持たない=戦争も防げない、ウィルスも防げない、あまりに膨大な“無力感”に世界は蔽われているのでしょうか。