20120727 東淀川教会礼拝 宣教要旨「世の時も ひとの時も我の時もわからない」コヘレトの言葉3章 マタイ福音書16章

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

コヘレトの言葉3章 19〜22節
人の子らの運命と 動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。(19)
すべては同じ場所に行く。すべては塵から成り すべては塵に帰る。(20)
人の子らの息が上へ昇り、動物の息が地に降ると誰が知るだろうか。(21)
私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。彼の後に起こることを 一体誰が彼に見せることができようか。(22)

マタイによる福音書16章1~4節
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。(1)イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、(2)
朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。(3)
邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そう言って、イエスは彼らを後に残して去って行かれた。(4)

宣教の要旨「世の時も ひとの時も我の時もわからない」担当 金田恆孝

 旧約聖書の、雅歌が「青年の情熱」、箴言が「壮年期の智恵」、そいてコヘレトの言葉が「老齢期の悟り」とそれぞれの特徴を言うことができます。

「時」とは「意識の枠」の別名と思われます。これがギリシャ哲学から始まる西洋的な「意識の枠」=「時」を前提とする感覚と、「色即是空」に表現される、意識の枠を取り払った「空」を前提とする東洋的な感覚との違いがあると思います。聖書はその両方にまたがった書と思います。 

「一切は空である」から始まるコヘレトの言葉。人間の頭で思い描くことも、聞き覚えた言葉も、口から吐き出す言葉も空しい、「虚」であると語ります。

3章は「全ての出来事は神の時の内側にあり、生まれるにも死ぬにも神の時があるが、人にはわからない」「人は動物に優るものではない」「すべては神の時の中にあるが、人間には神の時はわからないし、計り知れない。」
「神の時に対して謙虚な動物と、神の時に対して傲慢な人とを比べ、人間は動物に優るものではない」と断言します。人も動物も明日のことはわからず「今」を生かされているにすぎないと。

“人の息は天へ・動物の息は地へ”。とは、神の息が直接吹きこまれて生きるものになった人の息は、肉体から離れて神に帰るから「上・天」であり、動物の息は、自然に還るので「下」です。 

イエスの語る言葉が正しいのか、神の御心に適うことなのかを自分で証明しろと(エビデンスを)迫った反対者たちに、ヨナのしるし以外の証明はない、とイエスは語る。ヨナのしるしとは、人の思いと神の思いは真逆になったということ。人が必死で追い求めても得られるものではなく、逆に人が必死で逃げても捕まるものなのだと。

何がどうしてこうなったのか、どうすればいいのか、その原因や結果や生き方の答えについて人は問います。或いは、現在の権力支配が終わる時(革命 救出)、神が救世主を遣わして、この苦しみの時代を終わらせてくれる時(終末)それはいつかという問いは、「この時」への「しるし」を求めていることになります。“時のしるしは与えられていない” それがこれらの問いに対するイエスの応答でもあったのでしょう。

イエスが語ったのは、「神の子」である尊厳を取り戻せ =あなたにいのちを吹きこんだ主なる神をひたすら求めよ、という教えと、自分自身を大事にするように隣人も大事にしなさい=路傍に倒れている人があれば、旅人で隣人であるあなたは一杯の水を携えて駆けつけなさい。その行いは,神の御手の内側にある、とイエスは語るのです。

なにが相手にとって助けになるのかわからないし、困っていることの因果関係もわからない。こちらにも余裕があるわけではない。が、相手が一杯の水を求めたら、休息の場所を求めたら、出来る範囲でそれに応えなさい、というイエスのメッセージだと思います。

「時はわからない」について、三上寛の歌を思い出します。三上の歌“夢は夜開く”で、『サルトル マルクス 並べても 明日の天気はわからねえ』ってのがありました。どれほど過去を振り返ったり、歴史を学んだとしても、そこから先のことを、過去から今日までの延長と想定することはできない。映画のトラさんではありませんが、ときたま楽しいことはあるが、「わからないこと、苦しいこと悲しいことばかり多かりし」が日々の実感の人間にとって、“夢は夜開く”の二番『八百屋の裏で泣いていた 赤ん坊背負った泥棒よ キャベツ一つ盗むのに 涙はいらないぜ』はジーンとくる歌詞でした。他人のことなんぞかまっていられない、そんな現実の中であっても、他人に対する人の優しい眼差しが感じられる台詞です。イエスもそんな眼差しだったんじゃないかって想像しています。

先週の出来事 
発砲事件の山上容疑者への精神鑑定、責任能力の有無に白黒つけようと政府がやっきになって急がせている様子。「国葬」で“偉人”化を演出し、事件の背景を追求することもなく、さっさと死刑執行まで急がせようとする腹づもりなのだろうか。
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