20220828 東淀川教会礼拝 宣教要旨「合格・不合格」コリントの信徒への手紙二
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書3章 09節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
ルカによる福音書10章 27-29節
彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。
ルカによる福音書10章 36-37節
この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
コリントの信徒への手紙二12章 9節
ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二13章13節
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
ローマの信徒への手紙3章 27-28節
では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ハバクク書2章4節
しかし義人はその信仰によって生きる。
宣教の要旨「合格?不合格?」
こどもたちは「合格・不合格」の選別に小さいときから晒され、親の「合格への願い」にいっしょうけんめい応えようと努力しなければならない運命に置かれる。
試験などなくても、「ワタシは人としてフツウなのか 人として合格なのか、フツウじゃない、不合格なのか?」という不安に晒され、その不安をヒトに気付かれないようにふるまってきた子ども時代の延長にいる大人は多い。私自身もそんなひとりでした。
そんな存在不安を払拭してくれる、誇りに変えてくれるもののひとつが「選民思想」です。アブラハムの子孫であるとか藤原一族の子孫であるとか財閥の子孫であるとか。
アブラハムの子という選民思想をイエスは明らかに否定しています。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
神の前における合格表現にはいろいろあり、(救われる) (永遠の命を受け継ぐ) (義とされる) (悔い改め神の国に入る)などなど。どうすれば救われるのか、合格するのか、に縛られている、呪縛されている、と言えます。
キリスト教にとって「信仰があるから救われる」などと「信仰」という言葉・概念は重要なのですが、実は旧約聖書には「信仰」という概念がないのです。唯一あるのはハバクク書なのですが、エムーナーは“神の真実”と訳すべき(義人は生きている神の真実によって生きる)箇所です。信仰するとか信仰しないとかの、「信仰」の概念がないのです。
イエスの、『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること』とは、必死で努力するような努力目標ではなく、「神さまに生かされている」リアリティそのものだと思います。
「良きサマリア人のように隣人の喜びも苦しみも分かち合え」「そうすれば永遠の命を得ることができる」というイエスの言葉は「行為義認」なのでしょうか?
旧約聖書と新約聖書の間の不連続・明らかな断絶があります。
「キリスト教がユダヤ教から独立するために、律法基準に代わる新たな合格基準が必要となった」と言えます。
パウロの「信仰(ピスティス)・希望(エルピス)・愛(アガペー)」はクリスチャンにとっての特別な概念です。アブラハムの子孫とか、律法における義(合格)の概念に代わる、新たな選民思想(イエスの十字架の贖罪により義とされる、新たな契約の民こそ新たな選民、キリスト者である)の核になることば・概念です。
が、イスラエルの人々にとっては受け入れることが困難な言葉でした。映画「屋根の上のバイオリン弾き」にユダヤ人にとっての戸惑いが表現されていました。
そもそも「愛」は主観による関係の表現であり定義できない。日本でも「愛」は、めんこい、かわいい、愛でる、というような曖昧な表現のことばでした。逆に言えば、定義できないからこそ自由勝手に意味づけをすることが出来るわけです。同様に、八百万の神々に囲まれていた日本の民にとっても「信仰」は定義できない言葉です。ユダヤ人も同様です。
パウロの、人を説得するための論法は逆説的です。「自分は弱い人間であり、罪人で蟻、自分の力、行為では自分を義とすることができない。神にすべてを委ね、自分の弱さや罪をイエスに贖ってもらう信仰こそ合格に繋がる」となるわけです。
…行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考える…
これがパウロの“信仰のみ”に繋がっているわけです。
そうすると、合格するためには「行為義認」よりも「信仰義認」が第一条件となり、その証しとしての「信仰告白・洗礼」が不可欠の条件となり、隣人の喜びと悲しみ・苦しみを分かち合うことが二の次となってしまうのではないのか?
根底にある「選民思想」そのものをを問い直す必要があるのではないかと思うのです。
先週の出来事
NHK本部がはいっているビルと、統一協会が入っているビルが同じビルだった、という記事に驚かされましたが、そのNHKのドキュメント番組で「戦没画学生慰霊美術館「無言館」を観ました。画学生、日高安典氏が恋人を出征の直前まで、「あと10分描かせてくれ、無理ならあと5分…」とぎりぎりまで描き続け、出征し、帰らぬ人となった、その絵に感動しました。同時に、自分自身の老化を感じつつ、戦時下ではないとしても「あと10分、無理なら5分だけでも、と情熱を傾けられるものがわたしにあるのか?」と問われた思いがしました。