20220904 東淀川教会礼拝宣教要旨「ちぐはぐな時代」マルコ福音書2章18−22節
レビ記16章 29節
これはあなたがたのとこしえの掟である。第七の月の十日には身を慎みなさい。どのような仕事もしてはならない。イスラエル人も、あなたがたのもとでとどまっている寄留者も同じである。(贖罪日ヨム・キプルについての定め)
マルコによる福音書2章 18~22節
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
すると、イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。
しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。
誰も、真新しい布から布切れを取って、古い服に縫い付けたりはしない。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れが古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
宣教の要旨「ちぐはぐな時代」
イスラエル民族は年一度罪を悔い改める贖罪日ヨム・キプルを決めていました。断食が目的ではなく、生きるための行為(働く、とか、用事を行うとか食べるとか)を止めて、生かされているままの状態に戻って、何もしないまま、神のことを思う、生かされていることを確認する、ひたすら神から離れていたことを悔い改めることが重要な目的だったはずです。(レビ記16章29節)
それがいつの間にか断食という行為が目的となり、回数を増やし、「断食」という行為を行うことが信仰の証明となり、敬虔さや義人であることの証明となり、守るべき決まり事(後から造られた律法)になっていったと思われます。身近な隣人を助ける、助け合うことよりも「断食」という宗教行事を、欠かすことの出来ない行為として宗教家たちは優先していたわけです。
福音書が伝えるイエスたちの姿に「断食」は見当たりません。心からの悔い改め抜きの、儀礼化した「断食」に付き合っている暇もなく、食べ物を分かち合い、病んでいる人の手当てをし、人々を助け合いの関係へと導いていたと思われます。安息日も断食の日もおかまいなしだったため、信仰のルール=社会のルールを守らない、今風に言えば「反社」の行為、グループとして攻撃されたわけです。
イスラエルの民間伝承で、父なる(男性的な)神に対して、神とともに歩む民のことを「シオンの娘」つまり女性イメージで表現していることが多くあります。「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか」とは、社会から無視・放置され、闇に置かれ、嘆き悲しむ人々の祈りを、その叫びを聞き、主なる神が救済のために立ち上がられる、とイザヤは告げ、イエスもまた「神の国は近づいた」と告げました。神のほうから救済のために近づいてこられている。どん底に置かれた人々のところへ降ってこられる、それが花婿(神)が一緒にいる喜びの時、という表現なのです。
イエスたちの行いは、食べ物を分かち合い、語り合い、事情を理解し合い、生きにくさを共感し合い、おのおのの元気を取り戻すこと、更には、そのような人間関係を取り戻すことこそが重要であり、身体を清潔に保つための沐浴も、身支度を調えることも、手を洗うことも、おそらく食前の祈りすらもそっちのけだったため、「反社会的グループ・反社会的行い」と攻撃された、と理解していいと思います。
共観福音書それぞれに記されている、古い布の修理に新しい布を継ぎ当てする喩え、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる譬えについて、大人たちや子どもたちを交えながらイエスがどんなお話しをされていたのか、想像力を膨らませたいと思います。
イエスは今私たちが置かれている社会関係、人間関係でどう語られるだろうか、例えば現代の難民問題について、貧困問題について、LGBTQ問題について、幼児虐待問題について、妊娠中絶問題や体外受精問題について、戦争について、何が古い布きれで、何が新しい革袋なのか、何がちぐはぐな使い方なのかなどについて語ってくださると思うのです。イエスの十字架を仰ぎながら、復活の主の声を聴きたいと願います。
先週の出来事
元首相の国葬について、議論を広げようとする人々と、議論を抑え込もうとする人々との、両極端な動きを感じます。「国葬」とすることは、無言のうちに、この国の住民すべてに「弔意」を要求することになります。許されない暴挙だと思います。
安倍元首相の家族葬に、政府に忖度し半旗を掲げるよう各学校等に指示した自治体がありました。自治体の勝手な忖度だから政府は責任を負わない、と言い逃れはできるかもしれませんが、数十年前の戦争への道がそうであったように、「危険なファシズムへの道は権力者に対する忖度によって敷き詰められている」と思われますし、過剰なくらい警戒すべき現在の動きだと思います。