20230108 礼拝 宣教要旨「傲慢からお救いください」創世記9章9−11節 マタイ福音書3章9節 マルコ福音書12章35−37節 担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所

創世記9章 9〜11節
「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」

マタイによる福音書3章 9節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

マルコによる福音書12章 35〜37節
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている。『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ 私があなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

宣教の要旨「傲慢と卑屈からお救いください」

 年を跨いで戦争は続いています。沖縄では日本の自衛隊員と米国海兵隊とが合同の戦闘訓練を行なったとのニュース。それって、自衛隊の「専守防衛」の枠を超えていますし、何よりも国会での議論すら経ていないことがなし崩しに進んでいるわけです。この国は法治国家のはずです。戦争は、自分たちの行為の全てを敵のせいにできる、人間の「傲慢さ」の極みなのでしょう。或いは、“人間の人生は、「傲慢」と「卑屈」を懲りもせず繰り返すもの”という、誰かのセリフもあったように思います。

 大自然の営みの中で人々は人間を含む天地万物と生命が神に生かされていることを感じ、様々な神話や多神教が生まれた。やがて人間が我が物顔で地上を闊歩するようになり、自分たち(親族・一族・民族・国家)に都合の良い「神」を立てて、守護と繁栄を願うようになった。出雲の縁結びの神、商売繁盛のお稲荷神、学問は菅原道真の怨霊を祀る天神さん、戦争の神様は八幡様などを分業させ、お賽銭をあげてご利益を願うようになった。
 土地を持たなかった「神とともに歩む民」が砂漠の中で見出した神は、天地万物の創造神であり、人間の勝手な都合や願いに奉仕する神ではなく、神様こそが主・あるじであり、人間こそが神さまのご計画に無条件で奉仕するべき存在でした。契約とは、神さまのご計画に用いられる、参加させていただく「契約」という意味でした。

 しかも、人間との契約は、動植物との契約、言い換えれば、神と「みじんこ」との契約となんら変わるものではない、という宣言がそこにあります。地上を我が物顔で闊歩している人間の陥りやすい傲慢さを打ち砕くメッセージです。

 動植物の進化や擬態などの生命の営み、生殖の不思議もまた、神さまに守られ導かれ続けている証なのでしょう。例えば、魚の性転換でメスからオスへ性転換するホンソメワケベラ、オスからメスへ性転換するカクレクマノミ、オスとメスの両方に何度でも変われるダルマハゼなどについて調べると、神さまがそれぞれの祈りを聞き届け、変化させてくださる「契約」の不思議に驚嘆するばかりです。

 現代社会の性差別問題、LGBTQをめぐる諸問題の議論の中にも、人間の傲慢さを感じてしまいます。お魚さんと神さまの生きた契約について、お魚さんの生かされ方を学びながら、もっともっと謙虚になって、新たな祈りを生み出していけないだろうかと思います。,

 自分たち人間が被造物の中でいちばん偉いんだ、自然を支配していいんだ、という傲慢。あるいは、アブラハムの子孫であるイスラエル人こそ、神から選ばれた特別の民なんだという選民意識。それに対して、イエスは、「こんな石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と傲慢な選民意識に冷水を浴びせます。それは同時に、人間の血統意識にも冷水を浴びせるものでした。

もしかしたら、「キリスト者こそ神様に選ばれた、特別な民なんだ」という傲慢さが私たちの内側に隠れているかもしれません。それぞれ自己点検したいものです。

 イエスが“ダビデの子メシア”と期待されたのは、ダビデやソロモン王の時代の「ユダ国」の繁栄を再び築いてほしい、神に選ばれた民としてのプライドを回復してほしい、という“勝手な”ビジョンをベースにしていました。強い国家を求め、国家によって守られようとする願望は、神への信頼とは真逆です。

 こんな危機的な時代だからこそ、“わたし”や“私たち”や“国家”のための「主」という傲慢から離れて、万物、いのちの主に生かされ、主をのみ仰ぐ信仰に立ち返っていくことができますよう祈ります。

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