20230122 宣教要旨「マグダラのマリアは誰?」ヨハネ福音書20章11-18節 担当 金田恆孝
本日の聖書箇所
ヨハネによる福音書/ 20章 11-18節
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、
イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、園の番人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
イエスは言われた。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
1:マルコによる福音書/ 16章 01-2節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。
マルコによる福音書/ 16章 09節
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
宣教要旨「マグダラのマリアは誰?」
イエスの時代。福音書では男たちの姿は描かれていますが、女たちの姿は圧倒的に少ない。イエスに最も近かった女は誰だったのでしょうか。イエスの母マリアはイエスから「婦人よ」と呼ばれました。
イエスやその仲間たちは、男女の区別なく世の中から押し出され、より助けを必要としている、しんがりにいる人々に向かいました。イエスに働き人として派遣されたのは男たちばかりが列挙されていますが、人の数をカウントする時、大人の男の数で全体の大きさを記録しているように、基本は“男たち”の世界が記述の対象であり、12弟子も男だけとされています。女たちの働きは記録されていませんが、傷つき、病んでいる、苦しんでいる人々の治療行為や手当をしていたのは明らかであり、相手が女性の場合以外にも、女たちの働きはとても多かったはずです。四つの福音書ともに女たちの働きをあえて記さないのは、考えてみれば驚きですが、時代背景の故なのでしょうか。
イエスたちと共に働いていた女性たちの中で、最もイエスに近かったのがマグダラのマリアだったと感じられます。彼女について書かれているのは、マグダラのマリアは7つの悪霊を追い出していただいた、イエスたちの旅と活動に付き従った、イエスの埋葬を見届けた、イエスの復活に立ち会ったことなどです。いわば12弟子以上にイエスに近かったと感じられます。正教会、英国国教会、カトリックなどによってその理解、扱いは異なりますが、12弟子と同等に重要な使徒として讃えられています。イエスの足に香油を塗った罪ある女性と同じ人物と解釈する派も、違う人物として解釈する派もあります。
1988年のアメリカ映画「最後の誘惑」では、イエスの妻のような描き方でした。マグダラのマリアがイエスにとても近かった存在として表現されています。映画での表現は別としても、尻込みする男たちと異なり、遺体を埋葬するために出かけ、遺体がなかったため墓場の番人だと思った人に遺体の場所を尋ね、「遺体を私が引き取ります」というのは、イエスに最も近い身内の言葉のようにに聞こえます。見える姿を持たないイエスが「マリア」と語りかけると、彼女はイエスの存在を感じ「ラボニ(先生!)と叫んだというのも、その距離の近さを表しています。
十字架までは隠されていた女たちの活動や男イエス(たち)との関係が、十字架の出来事の後には、一挙に表に現れ、しかも男たち以上の重要な働きをしています。あたかもそれまでの「男あっての社会」が十字架とともに滅び、「女あっての社会」が表に躍り出たような印象を覚えます。マタイ、マルコ、ルカにはない、ヨハネ福音書によるマグダラのマリアとイエスについての記述は、従属したり支配したり差別したりの男女関係が十字架の上で滅び、男女の違いがあるからこそ互いに尊重し補い助け合える「人」が生まれた(復活した)ことを示していると理解したいと思うのです。
そもそも創造神話の理解ですが、「男から女が作られた」のではなく、動植物のごとく雌雄同体の「人」から男「イーシ」女「イーシャ」に分けられた、と理解する方が自然ですし、近年の生物学者(福岡伸一)から見た人間の生命理解に合っていると思われます。
今週の出来事
コロナ関連ウィルスを今後“インフルエンザ”ウィルス並の扱いにするとの政府コメント。でも多くの人に長い間張り付いたマスクは、外界に対する警戒感とともに外し難いペルソナ(仮面)となってしまっているような気がします。パンツとマスクを外せない人類も登場するのではないか、などと妄想してしまいます。