20230129 宣教要旨「イエスの召命」イザヤ書61章1節 ルカ福音書4章21-30節 担当 金田恆孝

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本日の聖句

イザヤ書61章 1節
主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため 主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み 捕らわれ人に自由を つながれている人に解放を告げるために。

ルカによる福音書4章 21-30節
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」
そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、
エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。
また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。」
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

宣教要旨「イエスの召命」

 『召命』。現代で「神さまから私はこういう命令を受けた」などの言葉を聞けば、幻覚とか妄想とか、怪しげな占い師や呪術師の妄言のように受け取られることが多いのでしょう。聖書が語る“召命”とは、士師や預言者などのリーダーを任命する場合、先に活躍していた者が新たなリーダーを任命する場合に“油を注ぐ”という儀式があったのですが、神さまから個人への指示であったことを、神に油を注がれた、と表現しました。神さまと個人の間における出来事であり、人からの神への祈り、神さまからの応答・語りかけという全身全霊を傾けた真剣な「対話」の中で起こる重大な出来事なのです。


イエスが神さまからどのような「召命」を受けたのかの一端を表現しているのがこのルカによる福音書の箇所です。イエスより700年以上前に活躍した預言者イザヤが語った「受難のメシア」「何の報いも栄誉もなく罪人として責められ、受難の末に取り去られるとりなし人」のメシア像を自身に対する召命として受け取っていたことが感じられます。 神からの召命に従うことによって自らが滅びるだろうトンデモナイ指示から、冗談じゃありませんよ、と逃げ出したヨナさんの記録(ヨナ書)を読むと、「祈り=神との対話」が、神に対する自分自身からの一方的なお願いのようなものではなく、命がけの相互的な対話であったことがわかります。イエスはなぜ逃げ出さなかったのでしょう。 “苦しむ人”“心の打ち砕かれた人”“囚われた人”の解放とは、モーセが受けた召命と同じく「奴隷解放」そのものとして理解していいと思います。

イエスの時代の奴隷とは、社会の中で自分を守るための身分もお金も人間関係も持たない“貧しい人”であり、罪人とされた人であり、「清さ」の対極に置かれた「汚れた人」であり、労苦によってしか食べ物にありつけない奴隷と同じでした。最下層の底辺があるからこそピラミッドが成り立つように、権力者や王が作り出す、奴隷あってのピラミッド型社会が形成され、王は領土や富のために戦争に明け暮れ、最下層の者たちは逃げ出すこともできす神に救いを求め続けていた。


 神が今、立ち上がり、神が世の最下層に下り、しんがりに立つ、しんがりをこそ守るというメッセージ(あなた方がこれを耳にした時、実現した)は、自分たちこそ神に近いというプライドを持っている人々の心を傷つけた。プライドは傷ついたけれど、イエスが多くの病人たちを癒しているという噂は流れており、イエスがこの村の病人たちを癒したりして、自分たちに利益をもたらすならば、お前を認めてやろうという考えもあったようです。自分や自分たちに利益のある教えや行いなら受け入れようとする姿勢をイエスは批判します。

 更に、預言者として最も有名なエリア(BC850頃)が北方の地中海に面した異教の町の、貧しい寡婦の家に遣わされ、人々から馬鹿にされ弾かれている貧しい者に対してこそ、神の子としての栄光を表されたこと、更に、預言者エリシャ(BC840頃)が癒したのは北方の異民族ナアマン王に仕えていたイスラエル難民の祈りに応えて重い皮膚病に苦しむナアマン王を癒したことなどを告げ、自分たちこそ神に選ばれた選民だと信じている、或いはそう信じたい人々のプライドを潰してしまいます。。

 当初は自分たちにとってためになる、役立つ話を聞くために集まり、イエスの、神の言葉についての教えに感心していた会堂内の人々が、怒り心頭で総立ちとなり、外に連れ出して、“山の崖から突き落とそうとした”場面は、イエスのメッセージがどれほど危険でトンデモナイ言葉として受け取られたのかを表現していますし、イエスの十字架への道がここですでに示されていたと理解できます。

 人々が、自分たちセクト(民族セクト、 宗派セクト、 国家セクトなど)の利益・不利益の感情をベースに熱狂し始めた時、セクトを包む全体主義が巨大な力となって個々人の感覚や考え方、個々人の信仰などは吹き飛ばされてしまいます。その恐ろしさは、例えば日本でも、日清戦争1894年、日露戦争1904年、日中戦争1937年、太平洋戦争終結の1945年の敗戦まで、日本民族こそ神に選ばれている、戦況が不利でも神風が吹く、という全体主義の熱狂と暴走を止めることができませんでした。 二度と戦争に加担してはならないと決意した“戦後”から77年過ぎ、二度と過ちは繰り返しませんとの誓いがほぼ忘れ去られつつあり、忘却とともに戦争への足音が近づいている昨今だからこそ、イエスのメッセージを今ここで聴きつつ、祈りつつ日々を歩みたいと願います。

先週の出来事

 海外経由のネットによる、貧困の若者を利用した闇バイトによる「連続強盗」事件。集団によるオレオレ詐欺から、闇バイトで雇った若者一人一人を駒のように動かす強盗に移行しているのでしょうか。会ったこともない人の指示を信じて将棋盤の駒になり切れる若者の想像力はどうなっているんでしょうか。 国境を超えたグローバル社会の犯罪、闇はますます広がっていくのでしょうか。

 

 

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