20230205 礼拝宣教要旨「不正にまみれた富」イザヤ書41:6 ルカ福音書16:1-9 担当 金田恆孝
イザヤ書41章6節
彼らは互いに助け合い 兄妹に「強くあれ」と言う。
ルカによる福音書 16章 1-9節
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。
『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』
また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』
主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。
そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
宣教の要旨「不正にまみれた富」
イエスの言葉として、友だちを作るために「不正を行いなさい」と語るのです。<br />福音書はイエスの十字架ののち、数十年以上経てそれぞれの福音書が書かれていますが、イエスの活動やメッセージのラディカルさ(激しさ、非常識な言葉や行い)はかなり抑えられ、マイルドに、かつ“清く正しく美しい”人物像に加工されています。それでもこんな不正を勧めるような箇所などが出てきてしまうのです。
イエスの譬え話です。どうやらこの金持ちは仕入れから販売までさまざまな利権を独占し、金を儲け、金融業をも営んでいるようです。金儲けをするには、扱う品物としては生活必需品なら、客に困らない。生活必需品でも一箇所から買うしか入手方法がなければ、お金を借りて必要品を手に入れるしかなく、その借金もどんどん膨らみ、借金苦の貧しい人たちが多かった、そんな状況設定が想像できます。<br><br> 元々、貨幣なんかなくても神さま、海や山や自然からの恵みや労働の成果を分かち合って生きることができれば良いわけですが、必需品(例えば飲料水も)が商品として売り買いされ、お金がなければ手に入らない状態となれば、それ自体が貧富の差を拡大してしまうのでしょう。<br> ここに出てくる「油」は調理や明かりのための灯火に不可欠ですし、「小麦粉」も食料として不可欠です。そういった生活必需品を買い占めて膨大な利益を得て、しかも借金に利子が加算されて雪だるま式に借金が増えて人々の苦しみが増していく。そんな借金地獄はイエスの時代もそこらじゅうにたくさんあったのでしょう。
ここに出てくる「管理人」は、金持ちの主人が売っている商品の、物品購入記録と購入者の利子を含む借金の記録を行ない、取り立てもしていたのでしょう。管理人が複数の場合は、担当する利用者が多ければ、手数料も多く手に入るわけで担当地域の奪い合いになるのでしょう。管理人が一人だったのなら、主人の使用人たちから、管理人のポジションが狙われていたことでしょう。彼を引きづり下ろすための密告があったわけです。ここでは管理人の「不正」があったのかどうかは明らかではありません。利用者の困窮がひどいので、返済を猶予している利用者が多かったのかもしれません。ここでは同業者からの密告のため、主人が一方的に管理人に対して不信感を抱き解雇しようとしています。取引記録は管理人が持っていますから、詳細な報告をさせ、引き継ぎの準備をしなければすぐに解雇はできません。その若干の猶予期間に、借金の多かった人の記録を書き換えて返済を楽にすれば、助けられた人たちが、自分が困ったときに助けてくれる友人となる可能性はあるわけです。百の未払い分を半分に。或いは百の未払い分を80に。それぞれの事情に応じて減らしたのでしょう。チャラに、無かったことにまではできません。できる範囲でのごまかし、記録の書き換えです。これももちろん「不正」です。それをイエスは薦めているわけです。
イエスの譬え話を聞いている人々の脳裏には、生活必需品で大儲けし、人々を借金せざるを得ない立場に追い込み、借金の利子を返済するだけでも大変な労苦を作り出しているにくにくしいお金持ちをイメージしていたことでしょう。
借金や未払い分に利子が加算されていくことや、神殿への捧げ物の義務、神殿税を課税するなどについて、イエスは“貧しい人に重荷を負わせ、その重荷を楽にするために指一本貸そうとしないエライ人々を批判しています。しかもそれが王や神殿が認めた「公正なシステム」となれば、それは貧しい人々から見れば「不正にまみれた富」となる。それを減らしてやることは人助けであり、助け合いになる、と語るイエスの発言は、社会から見れば反社会的発言となります。
現在の日本における一般労働者の賃金、月収、時間給などと、先進諸国のそれを比較すると、日本はかなり低く、時間給は最後尾くらいです。企業が内部資本を蓄えながら衣食住に関わる不可欠な商品を更に値上げするなど現代も変わらない課題です。
「不正をしてでも友だち、仲間を増やしなさい。」現代における大切な友達の作り方を教会でも一緒に考えたいものです。
先週の出来事
日本の社会病理を厳しく指摘していた社会学者宮台真司氏への襲撃容疑者の死亡。動機も背景も不明。死人に口なしか。