20230312 東淀川教会宣教要旨「パン屑の籠はなぜ減った?」出エジプト記16章13−20節 マルコ福音書8章14−21節

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

聖書箇所

出エジプト記16章13-20節
さて夕方になると、うずらがやって来て宿営を覆い、朝になると、宿営の周りに露が降りた。
降りた露が上がると、荒れ野の地表に薄く細かいものが、地の上の霜のようにうっすら積もっていた。
イスラエルの人々はそれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か分からなかったのである。そこでモーセは彼らに言った。「これは、主があなたがたに食物として与えられたパンである。
主が命じられた言葉はこうである。『それぞれ自分の食べる分を集め、一人当たり一オメルずつ、自分の天幕にいる人数に応じて取りなさい。』」
イスラエルの人々はそのとおりに行った。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた。
またモーセは彼らに、「誰もそれを翌朝まで残さないように」と言った。
しかし一部の者はモーセの言葉に耳を貸さず、それを朝まで残しておいた。すると虫が湧いて臭くなったので、モーセは彼らに対して怒った。

マルコによる福音書8章14-21節
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。
その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。
「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
イエスは、「まだ悟らないのか」と言言われた。

宣教要旨「パン屑の籠はなぜ減った?」

 モーセのとき。イスラエルの民の窮乏に応えて民に神から与えられた「マナ」を一人当たり2.4Lほど集め、それぞれ自分の必要に応じて食べ、翌日まで残さないようにしていた、とあります。しかも均等平等に配分したのではなく、それぞれの欲しいだけ、自由に取って食べた、と。そこに描かれているのは、神が「あなたの必要なだけ、取りなさい」という、個人と神との間の「自由契約」みたいなニュアンスです。

 四つの福音書に共通して取り上げられている、大勢の群衆が僅かな食糧で満たされ、かつ余った、というお話。
  ファリサイ派とヘロデのパン種に警戒するよう語った後のイエスの話として、男だけで5千(2万人ほど)の人々に5つのパンで余りが12籠。4千(1万6千人ほど)の人々に7つのパンで余りが7籠。なぜ籠は減ったのか?
 パンは増えて人数は減っているのに、残ったパンを入れる籠の数は減っている。もしも1千(4千人)に10のパンだったら籠は0か、10では足らないと訴える人も出てくるかも知れない…

 現代の中でこれを置き換えれば、窮乏に喘ぐ難民に対する“炊き出し”がいちばん近いと思います。イエスと仲間たちが、あちこちで、何度も炊き出しを行なった。難民の数が減ったり、用意された食料が多いケースほど、余りが少なくなる…  それはなぜ?

  神の子たちの窮乏に対して与える神の恵みは、必要十分に求めに応じて与えられるという。その信頼があれば、貯蓄する必要もなく、すでに貯蓄していたものを仲間たちに分かち合うことが出来、更に余ったパンを、更に助け合う仲間を増やすために用いることができる。それが主の祝福に応えること、というメッセージが響いてくる。

    パン種とは菌であり、腐敗と膨張両方の働きを持つ。元来遊牧民であったイスラエル人のパンは種入れぬパン、行動食だった。「ヘロデのパン種」とは食料の配分が権力支配を目指す王の手にに委ねられることでしょう。ファリサイ派のパン種とは律法学者たち、学者や政治家たち指導者層に、食料の配分が委ねられることの言い換えと思われます。そのどちらもが、神ではなくて人間に対する「服従」と「依存」という“腐敗”を生み出す、というメッセージに聞こえます。

 神への信頼と、助け合う仲間への信頼が失われ、本来は神からの恵みである食べ物を、王や支配者たちの備蓄と配給に委ねたり、政治家や学者・知識人の政治に、システムとしての平等な配分を求めたりしていけば、神への信頼は薄くなり、隣人の窮乏よりも自分や、身近な仲間の食糧を受け取る権利を主張し、窮乏の時のために備蓄するようになる…。目にみえる食料が増え、分け合う人数が減るほど、助け合いが減っていく… そんな人間の悲しい現実が語られているように感じるのです。

 

 

先週の出来事

9年前から2千億円かけて開発されたH3ロケットが失敗。膨大な損失であっても「国家事情だから」おそらく誰も責任を追及されない。これって、12年過ぎた原発事故の責任、海洋投棄されようとしている汚染水、放射性物質に対する無責任さと同じ?

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です