20230903 東淀川教会礼拝 宣教要旨「水が動くとき」レビ記13章45−46節 ヨハネ福音書5章1-13節
本日の清書箇所
レビ記13章 45-46節
規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。
また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。
その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。
ヨハネによる福音書5章 1-13節
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 (1)
エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 (2)
その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(3.4)
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 (5)
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 (6)
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」 (7)
イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」 (8)
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。 (9)
そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」 (10)
しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 (11)
彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。 (12)
しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。 (13)
宣教要旨「水が動くとき」
レビ記の規定から響いてくるのは、伝染の可能性のある病気になったとき、個人の自己責任として、集団に対して必要な距離を保ち、集団側にこの距離を保つよう警告を発することだった。排斥・排除ではなく、「必要な距離」をまず双方で確定することが重要であり、そのうえで集団側からのキュア(治療)、ケア(介護)が図られたのでしょう。
マタイ・マルコ・ルカ共観福音書で皮膚病(らい・ハンセン病)関連の治療場面では、“唯一なる神の子=メシア”・イエスが、病者の求めに応じて、超自然的治癒能力で一気に治療を行ったという描写ですが、これは“イエスとは誰か”の問いに初期キリスト教会が神学的に、かつ端的に答えるために設定した場面構成になっていると思われます。実際には助けを求める多くの人々夫々に仲間とともに寄り添い、ともにオロオロしながら試行錯誤を繰り返していたと思われます。死海の沐浴や湧き水や川の沐浴も多く行われていたのでしょう。ベトザタの池もそれらの一つと思われます。
遠藤周作「死海のほとり」
「イエスの姿はひどくみすぼらしい。重い皮膚病の患者や手のなえた者、盲人の目を癒やして、奇跡を起こす男はそこにはいなかった。イエスはただ、病人を愛し、共に眠り、孤独に寄り添い続けた。無力で、惨めで、優しい人であった。「奇跡の人」ではなく、「寄り添う人」であったのだ。」
池の水が動くときに奇蹟が起こる、という伝承があったのでしょう。“水が動くとき、その水にわたしを運んでくれる人がいません”とは、あまりの生き辛さを一緒に悲しむ人がいない、と同じ意味なのでしょう。イエスや仲間たちが彼の人の「生き辛さ」に寄り添ったとき、(聖霊が働いて)波が動いたのでしょう。二匹の魚と五つのパンが全ての人の腹を満たす以上に膨れ上がったように。
(別紙参照)日本のキリスト教、とりわけプロテスタントは選民思想に基づく独善的な原理主義者が多い、とよく聞きます。米国のピューリタニズム、禁酒運動、廃娼運動等の影響もあるのでしょうが、貧困など社会的弱者への同情と福祉政策を叫びながら、「保護」と称してハンセン病患者の隔離政策を積極的に担い、推し進めてきました。是非ご一読をお薦めしますが、らい患者北條民雄著「いのちの初夜」の中の一節「…同情ほど愛情から遠いものはありません」のメッセージに「然り」と叫んでしまいました。この「同情」に、福祉(分断)政策を促進した戦中戦後のプロテスタント教会の「罪」を感じたからでした。「キリスト教とキリスト教文化だけが神が認める正しい宗教」などという傲慢な信仰のあり方は、イエスの十字架に架けられていると思うのです。
参考資料(メモ)
ヘブライ語 ツァーラト ギリシャ語 レプラ 日本語 癩病 らい ハンセン病
1890年 フランス人神父テスト・ウィード 神山復生園 御殿場市
1895年 イギリス ハンナ・ツデル イギリス人 熊本回春病院
1907年 らい予防法 1909年隔離政策始まる 青森東京大阪香川熊本
1948年 優生保護法開始 断種政策は1979年まで
1924 大正3 東京YMCA 賀川豊彦一門 ルーテル教会の青年部「祖国を清むるために」「らいの人に同情し、安全な場所に保護してさしあげましょう」
北條民雄「いのちの初夜」「…同情ほど愛情から遠いものはありません」
日本MTL(日本救癩協会)はハンセン病患者とその家族を支援するキリスト教団体であるが、同時に国の強制隔離政策を是とし、皇室の恩寵策と強調して啓発活動をおこなった。
光田健輔 絶対隔離による問題解決 「国土をライカら守ろう」
熊本県本妙寺地区 らい患者とそうではない身体障害者、精神障害者らが暮らしていた。1934年 総世帯数149 男252 女230 小人152 らい世帯35
相愛更生会 寄附の強要 本妙寺住職の同意書偽造 厚生省、県知事の推薦書偽造 寄付を集め、互いが助け合うための費用を捻出していた。
プロテスタントキリスト教によるらい救済運動の呼びかけ 強制収用が目的
憲兵 警察 自警団 トラック キリスト教活動メンバーが一斉検挙
らい患者を愛生園、光明園、教愛園、樂泉園などに押し込んだ。
浄土真宗本願寺派もこれを黙認。
1863年より真俗ニ諦論
仏号聴信大悲念報は真諦 人道履行王法尊守は続諦 絶対天皇制を大前提としていた。