20231029 東淀川教会 礼拝 宣教要旨「イエスの一喝」マルコ福音書9章14-29節
マルコ福音書9章14~29節
一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。(14節)
群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。(15節)
イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、(16節)
群衆の一人が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。(17節)
霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(18節)
イエスはお答えになった。「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい。」(19節)
人々はその子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子に痙攣を起こさせた。その子は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。(20節)
イエスは父親に、「いつからこうなったのか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。(21節)
霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」(22節)
イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」(23節)
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」(24節)
イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出て行け。二度と入って来るな。」(25節)
すると、霊は叫び声を上げ、ひどく痙攣を起こさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。(26節)
しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。(27節)
イエスが家に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。(28節)
イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われた。(29節)
宣教要旨「イエスの一喝」
律法学者たちと仲間たちとの議論は、こどもの発作はいかなる悪霊が原因か、なぜ神殿に治療のための捧げ物をしないのか、なぜイエスの仲間は治せないのか、などの議論だったのでしょうか。マタイ福音書では「てんかん」と書かれています。
「てんかん発作」部分発作では幻覚幻視等の意識障害が現れたり、顔や手足などに不自然な、非合理的な動きが出たりします。全体発作の場合は、欠伸発作、強直発作、全身のけいれんなど、筋肉が勝手に動いたりこわばって動かなかったり。脳科学の説明では、脳内の電気刺激の変調、興奮と抑制のバランスが乱れること、とあります。
心理学では、ヒステリー(解離性障害)は、無意識領域で起こり、極度のストレスや心的外傷が引き金となって精神や身体的機能が意識から解離し、気がつかないまま、自分の意志でコントロールできなくなった状態を指しているようです。
多くの場合は、楽な体勢で静かな室内に寝かせて見守るだけで短時間に回復します。
「いつからこうなったのか」とイエスは父親に問診して病気の正体を探っています。生まれつきではなく後天的な原因によるものであり、その正体が少年をしゃべらせず耳も聞こえなくして、人との会話を妨害しています。更には火や水で死なせようとします。幼いときから、とありますが幼児期ではないと思われます。自我や自意識が目覚め、多少の“毒”を身に付け、攻撃と防御を覚えるのですが、中には過敏な子で、毒を持てないため防衛も喧嘩もできず、ひとの言葉や行為が加害的となり、過呼吸や発作などの「解離」症状が起きたりします。心的外傷と呼ばれる災害や事件や虐待などによって引き起こされるものもあります。それをイエスは見抜いて一喝したのでしょう。
心理療法の中に「一喝療法」があります。「逃げるぞ!走れ!」と声をかけ、一緒に走り出します。必死で走り出すことによって身動きできなかったものが崩れて、もつれ合っていた興奮と抑制のバランスがリセットされるようです。
少年のこころに入り込み、耳を閉じようとするもの、しゃべらせないようにしているもの、その正体に対してイエスが発している声は、その正体に向けての大声(一喝)であり、同時にその少年の耳には、少年自身の重荷を背負って一緒に生きようとしてくださる、味方の声だったに違いない。
ロシア・ウクライナで、パレスチナ・イスラエルで、互いを火の中、水の中で死なせようとしている惨劇が続いています。突き動かしている正体に向かって“一喝”してくれる復活の主イエスに祈ります。主よ来たりませ。