20240114 東淀川教会礼拝宣教要旨「パン種の意味」マルコ福音書8章14-21節 マタイ福音書16章5-12節

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本日の聖書箇所

マルコによる福音書8章 14〜21節

弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。 (14)
その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。 (15)
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。 (16)
イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 (17)
目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 (18)
私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。 (19)
「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、(20)
イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。(21)

マタイによる福音書16章 5-12節
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。(5)
イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に十分注意しなさい」と言われた。(6)
弟子たちは、「我々はパンを持って来なかった」と言って、互いに議論していた。(7)
イエスはそれに気付いて言われた。「信仰の薄い者たちよ。なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。(8)
まだ、分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。(9)
また、七つのパンを四千人に分け、なお幾つの籠に集めたか。(10)
パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」(11)
その時、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。(12)

宣教要旨「パン種の意味」

 二つの並行記事ですが、マタイの記事は先行したマルコの記事を参照して書かれています。明らかに変更箇所と削除があります。「ファリサイ派とヘロデのパン種」が「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」に書き換えられ、イエスの繰り返される叫びのような文言が短くなり、残った籠の数の省略があります。

 マルコ福音書の記すヘロデ(党)はイエスたちの行動や言葉を律法違反として攻撃するユダヤ教の派閥ではなく、巨大な外国支配勢力であるローマ帝国側に取り入って得た権力の座、ヘロデアンティパス・ユダヤの王を支持する政治組織を示しています。

 イエスたちは難民のような人々に呼びかけて大きな食事会をあちこちで繰り返していたと思われますが、ここでは、先の、5つのパンを用意した5千人の食事会では12の籠が残ったのに、後の、7つのパンを用意した4千人の食事会では7つの籠しか残らなかったではないか、そのことを理解せよ、と言っているように読めます。いったい何があったのでしょう。

 イエスたちによる大食事会の活動は、生きることに困窮している人々、国や神殿の助けを得られない人々が対象であったと思われます。国や神殿とは無関係に行われ、それに賛同した人々がパンや魚などの食材を寄贈したり、多くもっている者が少ない者と分かち合ったりした結果が、全員の満腹と残った籠であり、残った食べ物は次の食事会へと用いられたと考えられます。それがその後の4千人の食事会では大きく減った理由は、ファリサイ派と結託したヘロデ党が、王を無視したこの大掛かりな食事会を「経済活動」「商売」と見做して税金を課した、或いは税金の代わりに集まった食品の多くを献納させた(奪った)、或いは、食事会そのものを止めさせるために妨害した結果だったのではないでしょうか。
 或いは「貧者救済は王が国民に対して行うこと。国民が勝手に行ってはならない。余裕があれば王に上納しなさい」という徴収や取り締まりがあったのではないか、などと想像します。

 イエスは、互いが助け合い生かし合うための食事会を妨害するものを、無用な争いを避けるため、「ヘロデのパン種」「ファリサイ派のパン種」と比喩的に表現しつつ、仲間たちに注意を促していたと考えられます。

 福音書が書き記された時は十字架によるイエスの処刑から10年以上経って、すでに初期のキリスト教会が広がり始めていた時期です。初期の教会を守るために、キリスト教が王や国家やローマに逆らう、権力者に反乱を企てるような危険な団体ではないことを示し続ける必要があったのだと思います。マルコ福音書の書き手・記者も、王や神殿側からの妨害、攻撃があったことをあからさまに書き記して権力者たちを刺激すことを避け、イエスの言葉を借りて、“わかって欲しい・理解して欲しい、悟って欲しい” と読者に訴えていると思えるのです。

 マルコ福音書に遅れて書かれたマタイ福音書では更に、キリスト教会を守るために、ヘロデ王の名を消し、ファリサイ派やサドカイ派の妨害という、「誤ったユダヤ教から正しいキリスト教への迫害」というイメージを強調しています。残ったパンを入れるパン籠の数が減ったことの意味を、読者に詮索させない表現に変わっています。

 神の戒めのうち大切なのは自分自身と同じように隣人を大切にすることであり、助け合う、ともに食事をし、生きる困難さも分かち合うという、いわば顔の見える助け合いをイエスはさし示しているように思われます。そういった、本来の自然な助け合いは、今日ではほとんどが「福祉」行政、国の管轄事業に変わっています。

 自然に仲間を守り合う、助け合う力は、人間より動物たちの方が優れていると思います。せめて国の福祉政策や福祉事業を地方の、各地域での、顔の見える助け合い、分かち合いに戻していけないだろうか、そのチカラを取り戻せないだろうか、そのためにキリスト教会や諸宗教施設が働けないだろうか、と思うのです。

先週の出来事

戦時下のウクライナで パレスチナのガザ地区で 能登半島の大震災を受けた地域で 今、悲嘆に暮れている方々のことを思い、主がともにいてくださることを願いながらしばらく黙想いたしましょう。

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