20240211東淀川教会 礼拝宣教要旨「信仰義認? 何それ?」イザヤ書9章 ハバクク書2章 マルコ福音書11章 マタイ福音書21章 ルカ福音書17章
本日の聖書箇所
イザヤ書9章 15-16節
この民を導く者は迷わす者となり これに導かれる者は惑わされる者となった。(15)それゆえ、主は若者たちを容赦せず みなしごもやもめも憐れまない。
すべての者が神を敬わない者となり、悪を行い すべての口が愚かな言葉を語るからだ。それでもなお、
主の怒りは去らず その手は伸ばされたままだ。(16)
ハバクク書2章 4節
見よ、高慢な者を。その心は正しくない。しかし、
正しき人はその信仰によって生きる。」
マルコによる福音書11章22-24節
イエスは言われた。「神を信じなさい。 (22)よく
言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(23)
マタイによる福音書21章21節
イエスはお答えになった。「よく言っておく。
あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。
ルカによる福音書17章5-6節
さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、(5) 主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。(6)
宣教要旨「律法義認? 何それ?」
イザヤ書9章15-16節の「ことば」は2千年の時を超えて、この“神こそ在りのときを神なしで過ごす”「今」の現実に向けて語られているメッセージとして、そっくりそのまま受け取りたい。
唯一なる神は「信仰」によってその人を「義」とされる、とパウロは教えました。「信仰」こそが、その人が神に受け入れられる義人であるかどうかかが計られる、根本的な基準という意味なのでしょう。ならば、イエスは「信仰」をどう語ったのでしょう。
それほど重要な「信仰」という概念は旧約聖書でどう語られてきたのでしょうか。とても不思議なのですが、旧約聖書に「信仰」(ヘブライ語でエムナ)って言葉はほんの一箇所(ハバクク書)を除いて出てきません。エムナとは(神への誠実・神への畏れ・神への敬虔)を表す言葉です。生き方そのものを指します。
旧約聖書では、神を畏れない、敬虔さを失った人間の傲慢さを批判する言葉はたくさんありますが、言葉で定義された、概念としての「信仰・不信仰」という概念がないのです。それに反して新約聖書では「信仰」、ギリシャ語で「ピスティス」が頻繁に多用されています。
ではイエスは「信仰」についてどう語ったのでしょうか。実はイエスは「信仰する者が神に救われる」みたいなことを語ってはいないのです。今日の神学者の中でも「神を信仰したら、それを条件に神は人を救う」「信仰したんだから救ってくれないと困る、契約違反だ!」という考え方を“神取引き”と呼んで批判が始まっています。では、本日の聖書箇所における「信仰」をどう考えていけばいいのでしょう。
実は、イエスの時代、最も「信仰」と「律法」で人々に重荷を背負わせていたのが神殿祭司や律法学者たちでした。『自分たちこそ神の御心を理解している、人々は神の前で汚れを清めなければならない、罪や病は神殿側が判定し、罪の赦しを得、汚れを清めるために、神殿側が定めた捧げ物(代金)をしなければならない』という趣旨です。そんな彼らは、人々に重荷を負わせるだけ負わせて、本当に困っている、苦しんでいる人に指一本貸そうとはしないとイエスに批判された人々でした。「自分たちこそが神の御心を知っている」「罪から救われる道を手伝っている」という神殿側が乱発する律法の定義、「信仰」定義に対して、イエスは「人々を裁くな!」と叫び続けていました。
イエスの処刑から十年以上が過ぎ、原始キリスト教団と呼ばれる、初期のキリスト教会が大きく動き始めていました。そこで「福音書」が書かれたのです。そこでは、パウロの語る、“人は「信仰」によってのみ神に義とされる”という「概念」が新たにスタートしていました。福音書の中で、イエスが「信仰」について語っていたことにする必要があったと思われます。「律法」や、「信仰」などの言葉を頻繁に使っていたのは神殿祭司や律法学者たちでした。
イエスは彼らに向かい、「地震が起きるのは神の怒りであり、病気も個人責任だとあなた方は言う。あなた方に神の御心がわかっている、神をも動かすことができるというのなら、あなた方が山に向かって海に入れと命じたら、その通りになるはず。やってみなさい。預言者エリアも、他の宗教の祭司と雨乞いの祈祷をして、どちらの祈りが神に通じたかを争ったのだから」「ただし、もしもあなた方にからし種一粒ほどの、神に届く信仰があれば、だけれどね。」と、神殿祭司たちの“傲慢”を皮肉っていた言葉と思われるのです。
先週の出来事
映画『福田村事件』が、一年を通して優秀な活躍をした俳優や映画・ドラマ等を表彰する「2024年エランドール賞」を受賞したとのこと。第一次、第二次世界大戦の頃の日本人・日本の姿を、昨日のこととして想起できる貴重な作品だと思います。是非是非、おすすめです。