20240218 東淀川教会礼拝宣教要旨「旧約と新約との隔たり」出エジプト記20章1-20節

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本日の聖書箇所

出エジプト記20章 1-20節
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
①あなたには私をおいてほかに神々があってはならない。
②あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
③あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。
④安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。
⑤あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨隣人について偽りの証言をしてはならない。
⑩隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」 モーセは民に言った。「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」

 

宣教要旨「旧約と新約の隔たり」

ユダヤ教にあってキリスト教にないもの。ヤハウェ(主)「ヤーダー」(知る)
キリスト教にあってユダヤ教にないもの。「アガペー」(愛)「キリスト」(救い主)
※「さて、人は妻エバを知った。彼女は身籠もってカインを産み、『わたしは主によって男の子を得た』と言った。創世記4章1節
「知った」(ヤーダー)が新約における「愛した」と同じ意味です。

 イエスはイスラエル(ユダヤ)人であり、現代の私達が言う“旧約聖書”が示すユダヤ教の中に生きた人であり、旧約聖書に基づいて神からのメッセージを示し、十字架の上で殺された人。
 旧約聖書では「神」は万物と全ての生命の「親」であり、言葉で表現したり、書き表すことができない、讃美しつつも畏れるしかない対象。人間には理解の及ばない神中心の世界観がそこにある。仏教の“色即是空・空即是色”も、人間の知覚や認識をこそ空としており、これによく似ている。
 それに対してイエス以降のキリスト教では、自分が一番大事な、人間中心の世界観。人間が神を信仰する(契約する・服従する・告白する)ことが神を喜ばすことができる、という「関係概念」で理解するようになった。イエスが伝えた神と民(人)との関係を、「モーセの十戒」から拾い出してみます。
「わたしは主、あなたの神」とは、神が全ての生命と人々の親・肉親、という血縁的な感覚があります。イエスの神を呼ぶ言葉「アッバ」もそうです。親は全ての「命」も「人」も「あなた」も「子」として知って(ヘブライ語、ヤーダー)いるが、「人」は親を知ろうとしないし畏れない。神を「父」、民を「娘」で表現する場合もありますが、肉親関係の言葉で表現されます。「知る」(ヤーダー)がギリシャ語「アガペー」に該当します。

「神の名をみだりに唱えてはならない」とは、頭の中で理解したつもりになったり、一片の被造物が創造者を言葉や概念で表現する傲慢さを示す。人は神を知る(ヤーダー)ことはできない、という「わきまえ」が大前提です。
安息日は全ての束縛からも義務からも主従関係からも解放されて近親者とともに親なる神に生かされていることを祝う日。テーマは“解放”です。
「父母を敬え」は、父なる神・母なる神」の関係イメージ、神理解が重なっており、「あなたの子を知れ(愛せよ)」と同じ意味になります。
「殺すな」は「神の子」を殺すという神への反逆を禁じています。
「姦淫」の禁止とは「神が与えた人の性を他人が奪ったり支配してはならない」の意味で、自分から体を売る娼婦業、男娼は禁止していませんでした。人や物の略奪も禁止。偽証・嘘で隣人を貶めることの禁止。最後の「隣人の家を欲してはならない」とは本来、お隣の民族やや国を襲って人や物を奪うことであり、戦争禁止を表します。
 西欧に広まったキリスト教は人間の意識を中心とした神理解となったことを記憶に留め続けたいと思います。

 

先週の出来事

 豚から人への臓器移植の記事がいくつか流れている。その背景には、中国に腎臓などの臓器を買いにいくことが困難になってきている裏事情があるようです。
※「臓器収奪―消える人々 中国の生体臓器ビジネスと大量殺人、その漆黒の闇」
ガットマン,イーサン【著】中国で年間二千人の臓器移植ビジネス。その多くがウィグル民族や少数民族出身の死刑囚からのもの。そして、なんと大枚をはたいて臓器移植を求め中国に渡っている人の最も多いのが日本人。昨今は世界からの批判が集まり、「豚」からの臓器移植か模索されているとのこと。『千と千尋』の豚に変えられた両親が思い浮かんだ。これが今の「日本人」の実像なのだろう。

 

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