20240324 東淀川教会礼拝 宣教要旨「分断・立ちはだかる血縁」マタイ10章12章マルコ3章
聖書箇所
マタイによる福音書10章 34-36節
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
私は敵対させるために来たからである。人をその父に 娘を母に 嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる。
マタイによる福音書12章 46-50節
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。
そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書3章 20-22節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
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「分断・立ちはだかる血縁」担当・金田恆孝
ローマ帝国から統治を赦されているヘロデ王や他の領主たち、神殿祭司などの支配者たちによる、イエスたちの難民救済活動や大食事会などの「神の国運動」を危険視し、これを潰そうとする活動は執拗に行われていたわけです。
イエスに親族を利用して引き離して連れ戻し、気がフレた者・異常者として排除(隔離・現代なら精神病院収容?)しようとしたことの一端が福音書から伝わってきます。イエスだけではなく、仲間たちにも、参加する無名の協力者たちに対しても、このような「引き剥がし工作」は激しく続いていたと思われます。
イエスたちの時も、初期のキリスト教会にも、迫害・妨害工作が続いていたことを伝えるために、福音書の記者は、初期のキリスト教会を守るために「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうと、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」というニュアンスのコメントをイエスの言葉として記述したと思われます。現代風に表現すれば、“イエスたちは統一協会やオウム真理教のような危険なカルト集団である”、“悪魔の手先であるイエスにマインドコントロールされているから、親族総掛かりで連れ戻し、頭がおかしくなっているから精神病院に入れるか、指定場所に隔離しなければならない。”、“なにもせず放置したら、親族も協力・加担していると見做されて、罪に問われる”というような恫喝が行われただろうことは充分予測できます。だから母マリヤもイエスの兄弟たちも手はずを整えてやってきていたと思われます。それは今日も行われている、精神病院への強制入院措置と本質的に同じことです。
親族・家族による拉致、連行には失敗したわけですが、おそらく母マリアはイエスたちの活動を確かめるため、その場に残り、やがてその活動全体を理解し、活動を支える側に回ったと思われます。
イエスたちの活動の特色として、「病んでいる=汚れている=祭司から証明書をもらうまでは一緒に食事をしてはならない」とされている人々を癒やし、人間関係に戻す行為が続いていましたが、一方では、貨幣経済から排除され飢えている大人たちやこどもたちとの「食事会」を頻繁に行っていました。私たち東淀川教会の“聖餐式”も、この食事会の延長にあります。
「家族」「家庭」「親族」などの言葉に“暖かさ”、“良いもの”のイメージを感じられる人たちは、幸せな人々の部類に入るのでしょう。暖かさなどをまったく感じない人々もいますし、更には「家族」や「家」から深い傷を負わされた人々もいます。コンクリートの壁に囲まれ外側からは見えにくい現代社会の家庭のほうがより深刻だと思います。
イエスの言葉に「やもめ」が頻繁に現れますが、「家・一族」から排除された婦人や子どもだけでなく、孤児もハンディを負った人々も多くいたとはずです。「二匹の魚と五つのパン」運動は、そこに誰でも参加することができ、誰も排除しない、互いの顔を見合わせながら分かち合い、腹一杯食べることの出来る時と場所は「神の国」の始まりであり、そこに集うお互いが親であり仲間であり兄弟姉妹だったと思われます。「持っている・持っていない」を、“お互いさま”の感覚でカバーし合える人間関係が生まれていたと思われます。
ロシアでコンサートホールが襲撃され100名以上が死亡したとのニュースが流れていました。最終兵器を後ろに隠し持ったままロケットやドローンによる襲撃・戦争が続いている今。分断工作も続いています。イエスの時代の“引き剥がし”分断工作だけでなく、万里の長城、東西ベルリンの壁、ハンガリーとセルビアの壁、イスラエルの分離壁、トランプ大統領によるメキシコ国境の壁、等々、いつの時代も「分断・敵対工作」はありますが、これに対抗できる工作は何でしょうか。
日本では結婚する割合も子どもの出生率も精子や卵子の活動も下がり続け、“結婚はコスパが悪い”など、家庭作りに夢を持てない若者の感覚も広がっていると感じます。「誰でもがありのまま誰も排除せず食卓を囲み飢えを満たし合える関係作り」がイエスの提案だったと思います。
精神病院を廃止したイタリアのように、日本でも、分断に抗して、収容場所としての精神病院を終わらせ、重度精神障害者を地域で職種を超えて支え合おうとするACT(Assertive Community Treatment)活動が広がっており、これに“神の国運動”の一端として希望を感じています。聖餐式は主イエスを中心とした食事会。教会もこの活動の拠点になればと主に願います。
☆ACTについてご興味がある方に一冊の図書をご紹介します。医療関係者でなくても読める、なるほど!の書です。
「精神医療の専門性・治すとは異なるいくつかの試み」近田真美子著 医学書院 2000円
先週の出来事
モスクワ郊外のコンサートホールで起きた襲撃事件。百名以上が死亡とのこと。武装集団による襲撃のようだが、ロシア側集団なのかウクライナ側かそれ以外の集団なのかは不明なまま。ただ、戦時下であることを忘れて音楽を楽しもうと集まっていた人々に、戦時下の、殺し合いを続けている当事国の国民であること、戦場は限定されていないことを突きつけている攻撃と感じます。日本は交戦権が連合国・米国から与えられなかった国。米国の交戦権に従属させられているのでしょう。“日本は憲法9条を変え、主権国として交戦権を取り戻すべき”と主張している人々もいますが、武装化しても、かつての“竹槍”以上の意味はないのでしょう。被爆国であり交戦権をもたない国の住民だからこそ出来ることを主イエスに祈り求めたい。