20240609 東淀川教会礼拝 宣教要旨「神=愛 ですか?」宣教担当 金田恆孝

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Table of Contents

聖書箇所

コリントの信徒への手紙一13章 1-13節

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。(1) たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。(2) また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。(3) 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。(4) 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。(5) 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。(6) すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(7) 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。(8) 私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。(9) 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。(10) 幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。(11) 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。(12) それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。(13)

コリントの信徒への手紙一14章 34−38節

女は、教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。(34) 何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。女が教会で語ったりすることは、恥ずべきことです。(35) それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。(36) 自分は預言者か霊の人であると思っている者は、私があなたがたに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。(37) それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。(38) 
 

ヨハネの手紙一4章 16節
私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

     

宣教要旨

宣教要旨「神=愛 ですか?」

 そもそも被造物でしかない人間が、創造者である神を名付けて呼ぶとか、“神は○○である”と言葉で表現するとか、目に見えるモノで表すことは、神の偶像化として厳しく禁止されていました。イザヤは「人は粘土。神は陶工。私たちは主の手の業にすぎない」=被造物が創造主を説明できない、と語ります。

 古代ギリシャ語では利己的な好意をエロース、利他的な好意をアガペーで表現しました。
 “利他的な好意”アガペーに基づく生き方・考え方こそがキリスト者の基本であり、神が求める人の生き方である、みたいなメッセージ。が、これが単なる人間にとっての大切な倫理(たとえば、嘘をついてはいけないなど)についての説教に留まらない、自我を捨てなさい!みたいな強制力を感じるのです。

 なぜかくも利他的な愛、アガペーを、「アカデミックな」新しい概念、新しい教えとして、これでもかと思うほど繰り返し説いているのでしょうか。

 これまでの強い権力者中心、男性中心、ユダヤ人中心の社会で沈黙を強いられていた人々や女たちがいました。イエスの十字架と復活のメッセージ、福音は、服従・追従しかなかった社会的弱者や女たちにとって“解放”だったはずです。解放の喜びとともに教会の中で、教会のあり方についても、重たい神殿税や社会の様々な権威主義的な考え方や差別的なシステムについて、男たちに負けず、恐れず、堂々と批判的な発言もしていたはずです。それが、初期のキリスト教が国やローマや支配者たちを批判するような危険な団体と見做され、更なる弾圧を招く、とパウロたちは考えたのかも知れません。“女たちを黙らせよう”と考えたのかもしれません。

 信仰生活や教会のあり方について、様々な意見が噴出する中で、パウロは、自分からあなた方への手紙に書いたことは、主の命令であり、これを否定してはならない、と激しい口調で語っています。自分は神の代弁者である、モーセに与えられた律法に代わる新たな律法である!みたいな語気の強さです。「女は教会で黙っていなさい」とは、女だけでなく、こどもたちもハンディキャップを背負う人も高齢者も、家や国の権力者に逆らったりせず、対等に議論もせず、権力者が中心であることを認めて協力しなさい、という封建主義・全体主義の考え方に貫かれています。それがパウロの「教会の守り方」だったのでしょうか。


 が、パウロもユダヤ人であり、偶像崇拝禁止の意味は理解しており、「神=○○」という表現まではできなかったと思われます。が、ユダヤ人以外の地中海周辺の国々にキリスト教を広めようとしたとき、パウロ思想を更に強めたヨハネの手紙「神は愛である」という端的なフレーズは、「愛」という言葉、概念を各々が自分に引き寄せて自由に、自分に都合良く解釈し使うことが出来る概念、「ことば」です。とくに社会的弱者や女たちが、人としての尊厳を回復しつつも、社会に対して積極的に発言することなく、受苦のイエスのイメージを自分にも重ね、他者の苦しみをともに担う信仰者として生きるという、自己愛的な理想の姿を自分に重ねるための重要なフレーズでした。教会の権威、男性の権威、社会の権威に反抗せず、黙々としとやかに奉仕する女性像が理想だったのでしょうか。
 が、一方では、男女関係なく、この世でアガペー・利他的な生き方を自分の務め、信仰者として活動を続けると、「私」は神に近い存在であり、救い(天国)が約束されていなければならない、という無意識的な「神との取り引き」が生み出されてしまうのです。

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