20240616 東淀川教会礼拝宣教要旨「娘よ 立ち上がりなさい」マルコ福音書5章21-43節

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Table of Contents

本日の聖書箇所

マルコによる福音書5章 21-43節
イエスが舟で再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。(21)
会堂長の一人でヤイロと言う人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、(22)
しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23)
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけられた。大勢の群衆も、イエスに押し迫りながら付いて行った。(24)
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。(25)
多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。(26)
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの衣に触れた。(27)
「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。(28)
すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。(29)
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と言われた。(30)
弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」(31)
しかし、イエスは触れた女を見つけようと、辺りを見回された。(32)
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。(33)
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(34)
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(35)
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(36)
そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も付いて来ることをお許しにならなかった。(37)
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、(38)
家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」(39)
人々はイエスを嘲笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父母、それにご自分の供の者だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。(40)
そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。(41)
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。十二歳にもなっていたからである。それを見るや、人々は卒倒するほど驚いた。(42)
イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ、また、少女に食べ物を与えるようにと言われた。(43)

宣教要旨 「娘よ 立ち上がりなさい」

新約聖書は伝道のための「イエスこそ神の子」のメッセージが強すぎて、もともとイスラエルの民=神の子、という自覚があったにも係わらずぼやけてしまっています。

ホセア書2章 1節
イスラエルの子らは数を増し/海の砂のように/量ることも数えることもできなくなる。/彼らは「あなたがたはロ・アンミ」(主の民ではない)/と言われる代わりに/「生ける神の子ら」と言われる。

イエスは、“悪霊がついている”とか、“病人は汚れている”などと差別したり、「地の民」と名付け重荷を背負わせている人々に対し、『あなたがたは神の子に対して、いったい何しているのか』と怒りの声をぶつけていたはずなのです。女性の生理現象を不浄扱いして遠ざける、などはイスラエル社会にも日本社会にもありました。


5章の前半は、所謂“精神病者”(何かに取り憑かれた人?)が病から解放された、という物語です。5章の後半は「女・少女」のテーマが中心です。

 死にかけている会堂司ヤイロの娘12歳。イエスたちがそこへ行く途中に、殺到していた群衆に紛れてイエスに触った手があった。イエスの体から力が抜け、誰かに渡った。(イエスの治癒行為は、スーパースターの奇蹟物語などではなく、イエス自身の命を注ぎ出す行為であった。)

 手の持ち主を探すイエスに、無断で触れ、癒やされたことを自白した女は12年間の長血・不正出血の病で苦しみ、病気につけ込んで治療費をぼったくる医者たちの被害者でもあった。ずっと続いた出血の病は、おそらく同じ女たちからも疎まれ差別されていたと思われます。女であるが故に二重三重の苦しみに耐えてきた。救い=神の子としての祝福を取り戻すことを求めてイエスに触れ、癒やされて出血が止まったことを感じたのでしょう。その彼女にイエスは「娘よ」と語りかけました。(マルコ福音書を書き記した記者の深いイエス理解とさりげない工夫!)

「娘よ。あなたの信仰があなたを救った」と語るイエス。「12」は「まるまる全部 まるまるずっと」を表す語。少女から女になり、女故の病に疎まれ避けられ苦しみ続けた。女という桎梏・逃れられない呪縛からの解放を求めたのであり、解放されたからこそ「娘よ」の呼びかけだったのでしょう。“神の子としての祝福のうちに生きなさい”という語りかけなのでしょう。


 ヤイロの娘が死んだとの報告。が、娘を立ちあがらせるためにイエスは訪問します。最小限の身内と仲間だけで、部外秘で治癒が行われた、とは、私たち一般人の興味本位な、そこで何が行われたのか、という関心、好奇心から少女とイエスを引き離します。

「タリタ・クム」というアラム語は、イエスの直接的な、全身全霊の祈りのことばを表すのでしょう。起き上がった少女は12歳であったとマルコは告げる。12歳は体も心も少女、神の子であった時から「女」の体へ大変身が促されるとき。

 イエスの「少女よ 立ち上がりなさい」の呼びかけは、「少女のままで生きなさい」のメッセージと聞こえる。大人になることが恐怖でしかない子どもに、「大人にならなくてもいい。子どものまま生きなさい」とイエスは語りかけていたと思うのです。「心は子どものままの人こそ神さまに近い」とイエスはことあるたびに、しきりに多くの人々に語っていました。


 昨今のLGBTQの人権云々の議論がありますが、心が子どものままであることを「発達障害」として差別し、『子どもがほしい』欲求を無条件に肯定し、受精卵の遺伝子検査や劣性遺伝子の排除を容認し、昨今のテレビドラマではありませんが、借り腹すら容認しそうな気配です。生まれても「五体満足」でなければ、仲間たちから引き離し、無理矢理「特別教室」「治療の対象」「投薬の対象」にしている現代社会があります。


 LGBTQなどのわけのわからないAlphabetよりも、性自認以前の「子ども」Child の「C」神の子のCこそが守られるべきだと思うのです。

 

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