20240623 東淀川教会礼拝宣教要旨 「隠された女たちの活動」イザヤ書55章1-2節 ルカ福音書8章1-3節
本日の聖書箇所
イザヤ書55章1-2節
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るが
よい。金のない者も来るがよい。買って、
食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに ぶどう酒と乳を買え。(1)
なぜ、あなたがたは 糧にもならないものの
ために金を支払い 腹を満たさないものの
ために労するのか。 私によく聞き従い
良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたの
魂は 豊かさを楽しむだろう。(2)
ルカ福音書8章1−3節
その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。(1)
悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出して
もらったマグダラの女と呼ばれるマリア、(2)
ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それに
スサンナ、そのほか多くの女たちも一緒で
あった。彼女たちは、自分の持ち物を
出し合って、一行に仕えていた。(3)
宣教要旨 「隠された女たちの活動」
預言者イザヤが語っていた“神の国”、いわば究極の理想社会とは、貨幣(銭)なしで生きられる、生かし合える社会です。貨幣はこれを持たない者を排除し、持っても貧富の格差を生み出します。イエスもまたこの究極の理想社会を語っていました(皇帝のものは皇帝に、神のものは神に) 。この理想はグローバル社会の現代でも変わりません。
神にいのちを吹きこまれた生き物たちや人間にも、充分に食べ物は与えられています。お金がなければ食べ物を得られないこと自体が天地創造の神(天)に背いている状態をあらわすのです。
イエスが神の国、福音を述べ伝え町や村を巡り歩いた、とあります。12人の仲間とともに、そこに多くの女たちが私物を持ち寄って集まり、ともにいて、一緒に働いていたことが、福音書全体からみれば、サラッと、まるで列車の車窓を流れ去る風景のように記述されています。どれほどの女たちがどのように働いていたのかは基本的に記述しようとはしなかった、むしろ避けたようです。
イエスによる奇蹟物語が数多く記録され、イエスこそ神の子 救世主、メシア、現代的なことばなら“スーパースター”であることが重要で、信徒拡大、宣教のためにもカリスマ的なイエス像を中心に描かれていますが、イエスたちが町から村々への歩みとともに為された諸活動は、お金がなくて飢餓に苦しむ人々、病気を悪霊のせいにされ、遠ざけられている人々、汚れている人として助け合いの人間関係から排除されている人々を訪ね、体を洗い、寝る場所を確保し、着るものや食料を分かち合い、体や心の病の手当を行っていたはずです。マグダラのマリアも治療を受け続けていた一人です。そのマリアも他の女性たちも、治療や手当をする側に回っていたはずです。
イエスによる奇蹟物語は、いわば、イエスの仲間たち、多くの女たちの諸活動全体を代表して描かれている、と感じるのです。イエスによる治癒行為だけでなく、イエスに倣った12人の仲間の活動も、ともに働いていた多くの女たちの活動も、社会の最後尾・しんがりに置かれた人々を支える活動であり、それが広がっていたからこそ、大きな運動になり、為政者たちや神殿の支配者たちにとって見過ごすことに出来ない、危険視せざるを得ない、運動の盛り上がりがあったのでしょう。福音書の記述者は、その盛り上がりを小さく見せることに苦心したようです。集まった人々の数え方でも男だけ数えています。遊牧民の、男中心の群れのあり方そのものに由来していたとはいえ、いわばアナーキーな自発的運動を、危険視され取り締まられることを避けるためにも、小さく、単発的な出来事として描いたと思われます。
あの“五つのパンと二匹の魚”の物語も、イエスたちの活動が女たちの活動とともに、ことばは通じなくてもそこに集まってきた女たちにも広がり、全ての人の空腹が満たされ、助け合いの輪は広がり、余った食べ物は次の町や村での活動の元になったであろうこと、女たちによる、実践的神の国運動が続けられていたのでしょう。イエスたちが去った後もその助け合い、支え合いの運動は町や村の、特に女たちの心に残って、受け継がれていったと思われます。