20240630 東淀川教会礼拝宣教要旨「つまづきからの解放」マルコ福音書9章、10章 担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所

  マルコによる福音書9章 43節

 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの

消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい。

 

  マルコによる福音書9章 45節

 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両足がそろったままゲヘナへ

投げ込まれるよりは、片足になって命に入るほうがよい。

 

  マルコによる福音書9章 47節

 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに

投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入るほうがよい。

 

 

  マルコによる福音書10章 11節

 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことに

なる。

 

  マルコによる福音書10章 12節

 夫を離縁して他の男と結婚する者も姦淫の罪を犯すことになる。」

 

宣教要旨「つまづきからの解放」

コリント第一 12:21節には「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」とあります。パウロはイエスをキリストと告白する教会を「キリストの体」に見立て、教会内の一致について語っていますが、これはパウロ独自の表現ではなく、もともとのユダヤ教の教えの中に、イスラエル民族や部族や家族の集団を一つの体に喩えて、一人ひとりの一致を促しつつ、一部の人を排除することを避けるための教えとしてありました。

「片方の手や足や目があなたを躓かせるなら、切り捨てなさい」は、体における左右の機能を用いた明らかな譬喩です。盾(防衛)と矛(攻撃)で戦う場合、多くは縦は左手であり、矛は右手です。遊牧民や狩猟民族、海洋民族でも、強い男性が右手の役割を果たし、外の世界との戦いや交渉も強い男性が担います。左手は女たちが担い、一族を守り、子どもや高齢者を守りながら右手をサポートします。左右の手だけでなく、群れの中のそれぞれが、群れ全体のなにがしかの役割(頭や目や口や鼻や舌など)を担います。

 古くから伝わっていたこの「全体と部分」についての譬喩をイエスも語っていたと思いますが、イエスはどのように語っていたのでしょうか。

 一つの集団や家族は扶け合うべきであり、それぞれの“部分”は全体に奉仕しなければならない、一部が全体にとって迷惑だったり危険だったら、全体を守るために排除して良い、という全体主義の考え方や、当時の“律法”が弱者、病んでいる者、“貧しい者”を「全体ののために」排除している現実をイエスは非難し、いわば「神の子たちの復権活動」を続けていました。ならば、イエスはこの全体と部分の譬えをどのように離されたのでしょうか。キーワードは「つまずき」です。つまずくのは個人です。個人が集団から邪魔だとか汚れているとか全体の迷惑だとか責められたら、その攻撃は個人をつまずかせるものです。いわば「全体と個人との関係」につまずかされるのです。ならば、「全体」に受け入れられるために個人が更に努力するのではなく、神の子としての復権を図りなさい。大きな痛みを伴うとしても、関係を切り捨てることは自由だよ、とイエスは語っていると思われます。

訳し方の問題もありますが、ここは各パーツを主語にして「関係を切り捨てなさい」と訳されるべきと思います。


 成人の男女関係や婚姻関係において、男の立場から離縁する手続きだけがあったイスラエルの社会に対し、婚姻法を利用して男女の一方が、一方からの理由で相手を離縁することは、“正当”を偽装した姦淫(みだらな行為)であるとイエスは語っていると思われます。

 

 NHK朝ドラ「虎に翼」で、妻の立場、姑への義務、こどもたちへの母の義務、家を守る社会的義務を果たそうとし続けた「大庭梅子」が、遺産相続問題をきっかけに、“白旗を掲げて一切を放棄する”、「この一族から離脱する」と宣言する場面があります。まさにイエスの、「あなたをつまずかせているものを切り捨てなさい」のメッセージと重なりました。


 死亡した夫の妾であり、遺言を偽装して全財産を手にいれようとし、それが発覚すると三男の光三郎を籠絡して遺産の分配にありつこうとしている“元山すみれ”の姿は、創世記38章の“ユダとタマル”の物語におけるタマルの姿とも重なります。主人公寅子の発言「女は決して弱い存在ではない」がぴったりはまりました。

 封建的な家督制度、男中心の婚姻制度が、弱い立場の女や家族に大きな重荷を強いてきた日本の近代、現代の姿とも重なります。
 パウロの結婚観も、アウグスティヌスの結婚観も男性中心、教会法や社会システム中心のものでした。キリスト教が地中海周辺、ヨーロッパに広がるためには全体主義にならざるを得なかったのでしょう。


 今日、体と心の性的不同一者(LGBTQ)における社会的結婚システムや、体外受精、借り腹、受精卵の優生保護的選別論、離婚における子どもの親権論、米国大統領選における議論の焦点でもある堕胎についての議論など、生命科学技術の変化もあり、様々な意見が錯綜しています。


 今も国家間の戦争が続き、アナテマと呼ばれる皆殺し戦略が横行し、“神の子”たる個人の尊厳は、死者何名という数字に置き換えられ、徴兵制も拒否できない全体主義が勃興していると感じます。

 何が神から与えられた祝福なのか、強い立場の者が弱い立場の者に重荷を負わせることをどう避けるべきか、など、イエスのメッセージとともに教会でも考え続けたいと願います。
 

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