20240707 東淀川教会礼拝宣教要旨「社会システムの没落」マルコ福音書13章1-8節 

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聖書箇所

マルコによる福音書13章1 〜8節
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」(1)
イエスは言われた。「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(2)
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。(3)
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4)
イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。(5)
私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(6)
戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。(7)
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(8)

宣教要旨「社会システムの没落」

「なんと美しい神殿、なんとすばらしい建物でしょう」という、仲間の感嘆の声に「あんなものは簡単に崩れて土に還る」みたいなイエスの発言は、人が造ったモノは必ず土に還ることをイエスは語ったのでしょうし、ましてや、貧しい人々に重荷(重税)を背負わせることで成り立っているきらびやかな神殿も同じように必ず終わるはず、と語ったのでしょう。いわゆる黙示録のような、カルト的な「世の中」や「世界」の終わりについてイエスが語るはずはありません。不安や恐怖が長く渦巻く、窒息しそうな社会では、必ずと言っていいほど、「まもなく世が、世界が滅びる」という終末論が起こるのは歴史的なくりかえし、必然なのでしょうけれど。

 おそらくイエスは、破壊と再創造の「洪水物語」や、人間の傲慢さが罰せられた「バベルの塔物語」や、「神が蒔かれた一粒の種」などの話を織り交ぜながら、終わるべきものの終焉、死と再生について、神のわざについて語られたのだろう、と想像するのです。それは神がなさることであり、いつ、どのようなかたちで起こるのかを人間ごときが測ることや、進めたり遅らせたりすることも出来ない、というメッセージとともに語られたと思います。

 21世紀現代社会は資本主義と呼ばれる経済・流通システムそのものが国家の枠を超えてますます把握・理解しがたいものになっています。“資本主義とは何か”が改めて論議されています。

 戦争が科学技術開発(爆薬から原子力まで)を促進させ、日々新たな武器が開発され、戦争が先進諸国を軍需産業で富ませ、後進諸国や小国との民族紛争で最大の消費が行われるマッチポンプの原理のため、民族紛争は終わらない、戦争とは経済活動だ、という説もあります。今もパレスチナ、ウクライナでの戦争は止まず、国連に抑止や解決を期待しにくい状態が続いています。戦争が続いているこの現実の背景に、戦争を続けている者たち、続けさせている者たちの「必然」が潜んでいるはずですが、報道などではなにも浮かんできません。

 早川千絵監督の「plan75」という映画が話題を呼んでいます。倍賞千恵子主演。相模原事件に類似した、もはや役に立たず認知症や事故を起こしやすく医療費やら介護費用など社会に負担となる75歳以上の高齢者の安楽死を行政サービスとして推し進めようという、“近未来的”内容でした。「そんなことはありえない」などとは思えない現実が一方にあります。

 21世紀、発達障害という、医学的診断とも福祉政策的診断とも明確ではない概念でこどもたちはますます細かく分類され、分断され、投薬治療をうけるこどもたちの割合がますます増えています。子どもの出生率はますます下がり、非常勤労働者の最低賃金は低いままで、少年、青年の死亡原因第一位が自殺の現状は、まさに“終末的状況”と言えます。

“偽メシアや偽預言者(政治家・専門家・学者・著名人など)が現れて、しるしや不思議な業を行い(データを語り)、人たちを惑わそうとする。だから、気をつけていなさい。”のイエスのことばは、心に刻み続けたいのです。

「終末」(世の終わり)という「ことば」にふさわしいリアルな「現実」は、未来でも遠い過去でもなく、近い過去、1945年敗戦時の沖縄に在りました。NHKプロジェクトX で知ったのですが、日本本土を米軍から防衛するための「盾」として利用された沖縄諸島で「日本国を守るために」十万人以上が命を失いましたが、戦争が終わっても遺体処理も十分出来ず水道設備や医療体制も壊れ、川の水を利用するしかなかったため、マラリアや結核などが蔓延し、男の医師もおらず、まさに「この世の地獄」状態だったようです。そのとき立ち上がったのが看護婦の金城妙子さん。沖縄米軍基地に惨状を訴え直訴しpublic nurseのアドバイスを受け、日本の公衆衛生院と掛け合い、“医師に代わる働きも可能な”「公衆衛生看護師」の資格を認めさせ、集まった100名以上の仲間(女性)たちとともに足で歩き回り、レントゲンによる結核診断、ストレプトマイシンの投与なども行いながら絶望の淵にいた人々を立ち上がらせた。
 1971年、沖縄が日本に返還になるとき、日本政府は、看護婦に医師の行う医療行為が認められている「公看師」資格を剥奪しようとしたが、沖縄の人々の大きな運動が起こって、彼女たちの働きの歴史とともにこの資格も残ったようです。

 日本では未だに「看護師」は「医師」の指示のもとで、医師をサポートする立場であり、病人・病気のCare・看護・支援は、医師の治療・Cureの一段下にいなければならない、という暗黙の(いえ、明白な)ルールがあります。何が患者のためになることかを、対等に話し合える・協力しあえる関係ではないのです。医療の世界における医師の特権性がなくならないかぎり、「病める人、重荷を負う人」中心の医療は実現しないのでしょう。

 もう一つ、敗戦時の「終末」風景をNHKアーカイブスで「護郷隊」に狩り出された沖縄の少年たちに見ました。本土決戦を遅らせるために、沖縄の十代の少年たちが陸軍中野学校の将校により集められ、1944年の9月から1945年の7月まで、1000名の少年たちが山岳地帯のゲリラ兵として使われ、160名が戦死したが、戦後もこの事実は隠され、軍人恩給も与えられず、生き延びた人々もひとに言えないトラウマに苦しみ続けたようです。

どのような悲惨な現実が繰り返されようと、最後に絶望を超えて立ち上がるのは、男たちではなく、女たちなんだ、と確信した作品でした。

キリスト者として「終末」について語るなら、黙示録などを振り回すのではなく、「100年も満たない、今も続いている、想起可能な、そこにあった現実・終末」について語るべきでしょう。

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