20240714 東淀川教会礼拝宣教要旨「神たち・神の子たち」詩篇82篇1-8節 マルコ福音書10章13-16節 ヨハネ福音書10章30-34節
本日の聖書箇所
詩編82編1〜8節
賛歌。アサフの詩。神は神の集いの中に立ち 神々の間で裁きを下される。(1)
「あなたがたはいつまで不正に裁き 悪しき者におもねるのか。(2)
弱い人やみなしごのために裁き 苦しむ人や乏しい人を義とせよ。(3)
弱い人や貧しい人を救い 悪しき者の手から助け出せ。」(4)
彼らは知らず、悟らず 闇の中をさまよう。地の基はことごとく揺らいでいる。(5)
私は言った「あなたがたは神々。あなたがたは皆、いと高き方の子。(6)
しかし、あなたがたは人間のように死に 高官の一人のように倒れる。」(7)
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます。(8)
マルコによる福音書10章 13〜16節
イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。(13)
イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(14)
よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15)
そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。(16)
ヨハネによる福音書10章 30〜34節
私と父とは一つである。」(30)
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。(31)
イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」(32)
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」(33)
イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。(34)
宣教要旨「神たち」「神の子たち」
「神は言われた「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。」(創世記1:26)
イスラエルの民の“神イメージ”は、もともと単一の神ではなく、神話的な「神々」でした。
天地創造の多様な神々は、多様な人間たちを、人の母の胎に吹き込む神々である、という神話的なイメージが、移動の民イスラエル人にあったのでしょう。
神が神々に似せて人をかたどり、人々をつくったのであれば、人に男女があるように神に男女があり、髪の色も目の色も肌の色もことばもちがう神々がおり、目の見えない神や聾唖の神、寝たきりの神々の存在もイメージできていたはずです。
イスラエルの民にとっての神イメージは、多くの神々の中から、自分たちイスラエル民族を導き、奴隷状態から解放し、神にいのちを吹き込まれた、神の子としての尊厳を取り戻させた神であり、モーセの十戒によって示されているように、イスラエル民族と契約した神なのです。だから他の神々を崇拝すればイスラエルの神は嫉妬するという、男女の約束関係に似た「一対」の関係が感じられます。イスラエル民族を、「父なる神と子であるシオンの娘」の関係になぞらえるのも、一対の関係であることを表現しています。
「彼らは主に対して悪を行い その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。(申命記 32章 5節) とは、イスラエル民族が神につくられ、神に生かされ、神のもとに引き戻される存在であることを忘れ、傲慢になり、自我を中心とし、神々の子としての尊厳も見失っている、という意味なのでしょう。イエスの語る「子どものように神の国を受け入れる人でなければ」とは、神々の子として生まれ、多様な人間たちの中で生かされていることを喜ぶ、子どものような「こころ」を指すのでしょう。
神と人との関係、地上に様々な人々が、様々な神にいのちを吹きこまれて様々な姿で今を生きており、やがていのちの始まりである神の元にすべての人が呼び戻されて帰る、という普遍的な理解があり、神々の多様性と人間の多様性とを受け入れることができれば、違いを受け入れようとするでしょうし、自分達の信じる神を唯一絶対の神として、他の人々を滅ぼそうとする傲慢から脱却し、「神の子ら」のままいられたのでしょう。
西欧のギリシャ哲学、イデオロギー、思想、キリスト教神学が、人間の「意識」を中心として「神は一つ」「真理は一つ」という「理念」「理論」を発達させてきました。古代イスラエルの神概念とは異なります。
大人たちや世から期待される「立派な大人」を目指す中で 人は“神の子”であることを忘れ、多様な神々の子らの中で生かされていることの恵みを忘れ、自分達の民族以外を「神の子」として認めなかったり、邪魔な人々を悪魔の子と呼んで平気で抹殺したりもしてきました。いまもそのような戦争が続いています。
イエスの時代、救世主・メシア・神の子がこの世に現うれて我々を救う、というメシア待望論があり、「人は神の子」という元々の感覚は薄れていきました。イエスは、全ての人は神の子らであることを前提に、神の子として「親なる神」について語り続けていました。神殿側の人々にとってそれが「神の子を自称している」、神を冒涜する表現としか理解できなかったわけです。
イエスは、他の人々を、その人にとっての邪魔者扱いする人々に「あなたがたは神の子になにをしているんだ!」と怒りの声を挙げつつ、世で重荷を背負わされている人々の、「神の子」としての尊厳を回復させつつ治療や介護を続けていました。 神々の多様性を認めない人々、自分が握って手放そうとしない「理論」と「理解」を唯一の真理として他を認めない頑なな人々。さらにそれを「信仰の深さ」と取り違えている人々はいつの時代も多いのです。
「イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。」(ヨハネ福音書10章34節)とは、詩篇82篇6節の引用ですが、神殿の祭司長や律法学者たちが「神の子」を利用し、自分達を神の代弁者、特権者という立場から人々を裁き、重荷を背負わせている現実を指摘しています。
NHKの番組の中で、黒柳徹子さんの“窓ぎわのトットちゃん”の本の紹介とともに、黒柳さんが出会った、ともえ学園の小林宗作校長の子育てが紹介されていました。“神はこの世に不要ないのちなど吹き込まれない” “すべてのこどもたちがすばらしい可能性を秘めている” “それをダメにしている大人たちの社会がある”とのメッセージに溢れていました。こどもたちの自主性を尊重し、大人たちがこどもたちのあり方を指図するのではなく、いろんなことにみんなで取り組めるよう、見守り、支え、こどもたちを発見し続けていました。それを見たとき、聖書の中の99匹の羊と迷い出た一匹の羊の話を思い浮かべました。一匹の羊が迷い出たとき、99匹をそこに置いて羊飼いが一匹を探しに行った、という解釈もありますが、羊飼いと99匹の羊が、一匹の迷い出た羊をいっしょに探しに行った、という解釈がいいな、と思いました。
「多様性」や「人権」が社会のあり方、指標として多く語られますが、神々の多様性、神の子らの多様性はますます失われ、大人たちや社会からこどもたちはレッテルを貼られ「分けられ」ている現実があります。
イエスとともに、神々の多様性、神の子らの多様性を取り戻せたら、と願います。