20240721 東淀川教会礼拝宣教要旨「ほんとうにたいせつなことはね」ミカ書2章12節 ミカ書6章6-9節 マタイ福音書23章35-38節

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聖書箇所
ミカ書2章 12節
ヤコブよ、私はあなたがたをことごとく集め イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。私は彼を囲いの中の羊のように 牧場の群れのように一つにする。それは人の騒ぎとなる。
ミカ書6章 6〜9節
何をもって主にまみえ いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くすいけにえか、一歳の子牛か。(6)
果たして、主は幾千の雄羊 幾万のしたたる油を喜ばれるだろうか。私は自らの背きの罪のために長子を 自らの罪のために 胎から生まれた子を献げるべきか。(7)
人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。(8)
主の声が町に向かって呼びかける。あなたの名を畏れ敬うことが知恵である。聞け、部族と町の集会よ。(9)

マタイによる福音書23章 35〜38節
こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたに降りかかってくる。(35)
よく言っておく。これらの報いはみな、今の時代に降りかかってくる。」(36)
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(37)
見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(38)

 

宣教要旨 「ほんとうにたいせつなことはね」

今日の最初の讃美歌は、子ども讃美歌の「主我を愛す」です。地方によっては「おいどんのイエっさん(三回繰り返し)、おいどんを好いちょるけん」と歌う教会があると聞いたことはあります。実際にそう歌っているとしたら、イイ教会だなあ、と憧れます。いのちの主である神さまにいのちを吹き込まれ今を生かされていることの喜びを歌っている讃美歌です。イエスのメッセージの根底に、“りっぱなおとななんぞにならなくっていい。体が大きくなっても、子どもの心をもち続けなさい。それが神の子でいられることであり、いちばんたいせつなことだよ”と人々に本気で語り続けていたと思います。

 ミカという預言者は、イスラエル12部族が南北に別れ、互いが争い、北の10部族が危機的状況に陥っても助けず、エルサレムを中心とした南の2部族だけが生き延びようとしていることを嘆き悲しみ、いつの日か神は、憎しみ合う同胞を扶け合う同胞に変えてくださる、分断され散らされた民を再び集めてくださる。と語り続けた預言者でした。

 自分達こそが神に与えられたきまり(律法)を守り、罪滅ぼしの捧げ物を神に捧げ、命じられた儀式を行っている、神に選ばれたりっぱなおとな(選民)であるという自負(フライド)に満ちた人々が、南のエルサレム神殿を中心に集まっていました。

「何が善(神に喜ばれること)であるのか。主なる神はあなたに何を求めておられるか。それは(誰をも見下げることなく)公正(誰かを見下げたり、立派な人として見上げたりせず、誰に対してもおなじように神の子として接し)を行い、慈しみを愛し(神さまのようにすべてのいのちをかけがえのないものとして慈しみ)、(何かをしてあげたと傲慢になることなく)へりくだって、あなたの(いのちの親である)神と共に、(神の子として)歩むことである、と預言者ミカは語っていると思うのです。それは文明以前の、古代からあった、自然と共に生きてきた人々の中にあった感覚だと思います。

 「公正」。私事ですが、20代のとき、大阪池田市の五月山教会でであった中川牧師(植物学から神学に進まれた)が、教会学校のこどもたちに「神さまは明日は死んでしまう小さな虫でも毒のある蛇でも乱暴なライオンでも、人間にとって邪魔な生き物でも、みんな違っているけど神さまにとって大切ないのちなんだ。みんなも好きな友だちや嫌いな友だちがいるだろうけれど、誰に対しても、神さまにとって大切ないのちなのだから、好きになれなくても嫌いになってはいけない。同じ態度で接することがイエス様の教えなんだよ」と、こどもたちにとって『難しい課題』を語り聞かせていたことを、ミカ書の「公正」で思い出しました。70を超えても人間に対する好き嫌いの激しいわたしにとって課題であり続けている記憶です。

 ここで「愛」ということばが使われていますが、今日私たちがそれぞれかってに意味を込めて使っている「愛」という概念なんぞではなく、愛したい人を愛するこころでもなく、人間関係の理想でもなく、動植物や人間すべてにわたって神さまにいのちを与えられ守られ育まれている実感、親に大切に育てられているこどもの実感”を「親や神の慈しみ」として受け取る「慈しみ」、誰も人を裁かない、絶交しない、赦し合えるときを待ち続けるこころ、と同じ意味でミカは用いていると思います。

「大人にはできない」ことでも、「子どもにならできる、子どもにこそわかる実感のことば」として響いてくるのです。『神さまの慈しみから漏れるいのちはない みんなキラキラしている』という、こどもが体得する実感です。かつてこどものときに体得できなかった大人は悲しむべきであり、その悲しみをこどもたちに伝えるべきでしょう。

 イエスが「エルサレム、エルサレレム、」と悲痛な響きで重ねて呼びかけている「エルサレム」は、本来は「祈りの家」であり、神の子たちへの祝福を取り戻すべきところでした。が、国家としての栄光や、経済力(強盗の巣)や軍事力ばかりを求め、王たちや神殿の支配者たちを批判する人々を暗殺し、公正さも慈しみも失い、人として犯してきた過ち・罪と向き合おうとせず、神とともに歩むイスラエル人としての、個々人の生き方が見失われている「エルサレム」は、滅ぼされ荒れ果てるであろう、という「呪い」のことばが記されています。

 近年、食物連鎖により鯨やマグロや金目鯛などの回遊魚や魚介類に多く含まれる水銀が胎児に及ぼす影響について、妊婦への魚介類の摂取と水銀に関する注意事項及びQ&Aを厚生労働省が発表し注意喚起を促しています。

 以前は住民に不安を与えるようなデータは隠すのが行政の姿勢でしたが、もはや影響は隠しきれず、自己責任で被害は防ぎなさい、ということなのでしょう。 天からの恵み、海の恵みを疑うことなくいただき、神々や自然に生かされていることをこどもたちに教えてきた人々が狂い死にした水俣病事件の公式確認から70年ほどたった今日。自然界の汚染は無条件に信頼できるものではなくなりつつあるのでしょう。「水俣病」は人間たちによって作り出された「病気」「甚大な被害」であるにもかかわらず、企業や国の経済優先政策はそのままで、「二度と過ちを繰り返さないための対策」もないまま今日に至っています。 どんどん姿を変えるウィルスも恐怖ですが、原発事故による汚染水の海洋投棄による食べ物からの被曝、水銀だけでなく除草剤や食品に含まれる化学物質による複合汚染や遺伝子操作による農作物の人体への影響など、なにがどこまで進んでいるのかも不明なまま今を生きるしかない、大人にとっても子どもにとっても不安ばかりが充満している現代社会ですが、だからこそ、預言者ミカの語る「もっとも大切なことはね」の語りかけに耳と心を傾けたいのです。

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