20240811 東淀川教会礼拝宣教要旨「ユダの福音書3章・選民思想」ユダの福音書、マタイ福音書17章

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Table of Contents

ユダの福音書3章
1 朝になるとイエスはどこからともなく仲間のところに現れた。仲間たちはイエスに言った。「あなたは私たちのもとから離れてどこに行っていたのですか?何をされていたのですか?」
2 イエスは彼らに言われた。「神の国に行ってきました。」
3 仲間たちはイエスに尋ねた。「その、まだ出来上がってはいない、選ばれた者たちのために用意される家とはどんなものでしょうか? 選ばれる神の民とはやはりイスラエル民族のことでしょうか? それとも他の民族でしょうか?
4 するとイエスは笑い出し、そして言った。「あなたがたは何を思い描いているのですか? はっきり言いますが、「神の国」では「選民」を見ることはないし、天の星々もその選民を知らないし、神さまのもとに帰ったすべての人も「選民」を見ることはないでしょう。何故なら、「選民」は、神の選びに由来してはいないからです。この世の「民族」は、この世の人間たちによって命名されたものだからです。「選民」は、互いに異なる群の人々をよそ者と決めつけ、力づくで争ったり、貨幣の力で買ったり、土地から排除したりするための方便だからです。
5 仲間たちはこれを聞いて、それぞれ心底からショックを受け、何も言うことができなかった。

マタイ17章1−3節
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(1)
すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。(2)
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。(3)

宣教の要旨 「仲間たちの選民思想」

3章は、イエスがいなくなり、イエスに依存する仲間たちが探しているところに、イエスがひょっこり帰ってきた、という場面です。底本の“グノーシス用語”は省略し、福音書に用いられていることばで理解したいと願います。

 イエスにとって共に働いているのは「友」であり、同労の仲間なのでしょうが、様々な危機が迫っている状況もあり、仲間たちはイエスに依存し、イエスの一局指揮の下で動こうとしていたのでしょう。「いったい、どこに行っていたのですか!」と、黙っていなくなったイエスをなじるような問いかけに、イエスは「神の国に行っていたよ」と答えたのでしょう。

「神の国に行っておられたのなら、神の民、イスラエル民族が神と共に住むことの出来るという「家」をご覧になりましたか? あるいは、招かれているのはイスラエル民族ではなく、他の民族でしょうか? 少なくとも、メシアと呼ばれているあなたとともに働いている私たちには、神の国の家は必ずあるのでしょうね?」などとたたみかけている雰囲気が伝わってきます。

 アブラハムの子孫であり、自分たちは選ばれた12部族の内側にいるという、もともと持っていたプライドは強烈に残っているのでしょう。そんな「選民意識」をイエスは笑い飛ばしてしまいます。「自分たちをアブラハムの末裔などと思ってもみるな」などのイエスのコメントもあります。人間の側が、自分たちの願望によって勝手に作っている「選民の基準」「民族」なんぞは、神の招き、選びと何の関係もない、と笑い飛ばすのです。 イエスがこの世から離れて、一人になって祈っていた、或いは対話していたのは、モーセやエリアをはじめとする預言者たちだったのでしょう。それがマタイ福音書の17章にも書き記されたのでしょう。イエス自身の十字架への歩みは、モーセや預言者たちの歩みを引き継ごうとするものだったのではないか、と感じています。 

 世界には様々な民族があります。自分たちの民族こそ神に選ばれたすばらしい、優れた民族である、という選民思想に酔って、熱狂とともにあまりにも大きな過ち、犯罪を犯したのは、かつての(そして今の)イスラエルだけでもないし、ドイツのナチスだけでもないし、アジア侵略を繰り返した日本軍だけでもありません。が、この熱狂への誘惑にどう巻き込まれずに済むのかは、とても大事なテーマです。被曝地広島から発せられた「わたしたちは二度と過ちは繰り返しません」のメッセージは、“人間は愚かで過ちを犯すものだけれど、被害者としてだけでなく、熱狂した加害者としても、なにがどう間違っていたのかを問い続け、過ちを繰り返さないためにも、過ちの内容を明らかにし続けなければならない”という決意を込めた「過ちは繰り返しません」宣言だったと思います。でも、「過ちは繰り返しません」の最も大切なココロは忘れ去られているのか風化しかかっているのが現実なのでしょう。

9日の長崎原爆記念日の集会に、イスラエルを招かなかったことで、G7の国々からボイコットが続いた、とのニュースに、「ともに人類の過ちについて考え悔いる」ための道は、ますます遠のいている、と暗澹たる思いになりました。 「カルト」と呼ばれている現象の本質は、戦時下における民族や集団による「熱狂」と同じです。いまフランスで行われているオリンピックでの、メダル競争、日の丸の旗をちぎれんばかりに振る姿をテレビで見る毎に不安になります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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