20240825 東淀川教会礼拝宣教要旨「神殿への依存を止めよう」底本「ユダの福音書五章」

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ユダの福音書五章(幻の説明とそれに続くやり取り)
底本「解説 ユダの福音書」J.ファン.デル.フリート 戸田聡 訳
1 あなたがたは何に動揺しているのでしょうか。神殿の祭壇の前に立ち並ぶ祭司たちが揃って、断罪せよ、神への生贄にせよ、と呼んでいるのは私、イエスの名だけなのです。救世主が現れるという預言も、イエスこそメシア、ユダの王という物語も、人の口によって作られた「実の成らない木」なのです。
2 あなた方が幻で見た12人の祭司とは、イスラエル12部族のことであり、神殿の神は12部族の神であり、あなた方もそこに帰っていくのです。神殿では多くの群衆を律法で縛り、罪を清めるための犠牲や捧げ物を納めさせています。
3 「イエスこそ救世主、ユダヤの王」と言いふらし、群衆を扇動したあなた方の仲間もいます。私が取り去られた後も「私こそメシア・新しい王」という者たちも現れ人々を扇動するでしょう。アブラハムが初子を捧げようとしたように、大切な身内を神に捧げようと言う者も、女性には触れていないから自分は清い、という男色の者も、断食を自慢する者も、自分は天使のように清いと主張する者も現れるでしょう。「神はレビ人・祭司たちからのみ、あなた方の罪を清める犠牲を受け取る」と信じ込まされている群衆も多いのです。

4 だから、あなた方は神殿に生贄を捧げるのはやめなさい。神殿に捧げられた物に群がり、更に利益を得る人もいます。一方でそれを必要とする貧しい人々に分けられることはありません。

5 (大部分が欠落)

6 律法や神殿について、あなた方と言い争うことはしない。神殿と繋がっていなくても、すべての人々はそれぞれ自分の星・聖霊に守られて神と繋がっているのです。

 

 

 

宣教要旨 「神殿への依存をやめよう」

 イエスの十字架に書かれたINRI(Iesus Nazarenus Rex Indaeorum)「ナザレのイエス、ユダヤの王」の意味は、「こんなおおぼらをふいていた罪人」という罪状という意味とともに、まさにイエスたちの活動が王の交代を要求する反乱者による革命運動、社会を転覆させようとする運動として認識されていたことを示しています。

 福音書の“実のならない木”や“実の成らないイチジク”という表現も、神殿側やヘロデ王側の“でっちあげ”、煽動者たちによる“イエスこそ神の子・救世主メシア”、“ユダヤ人の王”などの“でっちあげ”という意味を含んでいたと思われます。

 12人の祭司に象徴される、イスラエル民族、ユダヤ人こそ神に選ばれた民、という選民意識を笑い飛ばし、否定していたことが感じられます。また、イスラエルにとって祖先アブラハムは信仰の模範として語られていたと思われますが、イエスはそうではなかったと思われます。またレビ族はイスラエル民族の信仰生活に仕える、公僕の人という伝統がありましたが、イエスの時代には、単に立場や律法を利用して搾取する人のように描かれています。

 神殿の祭司たち、レビ人たちは、今日の社会に置き換えてみれば、納税額を決める役人であり、健康か健康でないかを決める医者のような立場であり、罪人か無罪の人かを決める裁判官のような権威までも持っていたようです。“十分の一税”の本来の趣旨は、収入の十分の一は、「公共の福祉」のために用いられ、収入がない、貧しい人々のために用いられる趣旨だったはずが、その趣旨も無視され、単なる収奪の口実になっていると語るのです。

 そんな“罪滅ぼしの生け贄”なんぞを献げることを止めよう、神殿と繋がらなくてもそれぞれが神さまに守られている、とイエスは語りかけるのです。ただ、イスラエル民族こそ神に選ばれた選民、というプライドを持ち続けてきたイスラエルの人々にとって、神殿から離れ、イエスが示すように、それぞれが直接神に祈る生活に変わることは勇気の要ることだったのでしょう。

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