20240901 東淀川教会礼拝宣教要旨 ユダの福音書六章 (意訳)

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ユダの福音書六章(先祖からの信仰に関するイエスとユダとのやりとり)

1 預言者が来たのは、神の国を潤すため、神の民を潤すためです。人が神の子として生かされ続けることをいつまでも実現し続けるからです。

2 この時代の人々が残したものはどんな果実、いかなる成果なのでしょうか。

3 どんな時代の人々であれ、体は死に、霊が自分から離れるときに魂も死にますが、本来の魂は神のもとに引き上げられるでしょう。

4 地上、この世に残された人々は何をしているのでしょうか。

5 勝手な恐怖や願望や想像・空想からは何も生まれません。言葉や理念等、人の思いを駆使して作り上げた天のイメージや、善悪論や救済論や、死後の世界のビジョンなどが天に繋がることはありません。

宣教要旨「民俗史が生み出す選民思想」

 

 全ての人は神にいのちを吹きこまれ、定められた時と場所と環境で神の子として生かされ、やがて肉体が滅びるとき、その魂・霊は親なる神のもと、神の国に引き上げられる。が、人は自力で自分を生かそうと神の育みから離れる。神の育みを見失う。(放蕩息子の喩え話)
 預言者たちはいつも神と人との本来の関係に人を引き戻すために働き続けてきた。

 イスラエル民族は自分たちこそ神に選ばれた、神に近い特別な民族であるという「選民思想」に陥って傲慢となり、律法を増やして神の元に招かれる条件、救いの条件を積み上げ、人々に負わせる重荷を増やしてきた。
 いかなる人も、終わりの時は神が定め、肉体は滅びるが、神が吹き込んだ「霊」は神の元に戻される。

 この世の人々が神に近づくために努力したこと、善と思われる行為、或いは、犯した過ち、この世での罪などはどうなるのでしょうか。

 人間の死後への恐怖や、願望や空想など、人間から生まれたものが天に繋がる、実現することはあり得ません。
 あの人はあのような罪を犯したのだから、救われるはずがなく、地獄行きだと決めつけたり、自分はこれだけの善を行ってきたのだから、神はわたしを救わなければならない、救われるのが当然、などと考えるなら、自分自身や人間たちを中心として「神との取り引き」をしようとしていることになります。

 神は人の取り引きに応じる神ではありません。にもかかわらず、人はいつの時代も「取り引きの神」と「選民」を作り出し続けるのです。全ての人は神の子であることから逃げ続けることも免れられることもありません。

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